和算
インド準備銀行総裁の意見が雑誌に掲載されていた。ほとんど同意する。ただ、外貨準備が積み上がっていることは知らなかった。これはこれで内訳を知りたい。多分ドルが大部分とは思うけど。
内閣が代わってインドに期待したい。
分党のニュースがある。小耳に挟んだ話では自主憲法が理由になったようだ。
自主憲法について、どのような話になっているのかは、わからない。名前で判断することは出来ないので、その内容を確認しないとなんとも言えない。
しかし、連想することがある。現行憲法を否定する理由がどこにあるのか、わからないが、成立経緯を他国から強制されて自主的要素がないとする認識で、単にその認識を根拠に全面的改憲を狙っているとしたら、世界の歴史を学ぶ姿勢が感じられず、ガラパゴス化のように思えてならない。
歴史のどのようなところを学ぶかは、千差万別だ。だから、全く学ばないことも含まれる。その意味では学ばない姿勢を批判するものではない。しかし、国民全体に影響を与えることについては、また違った見方になるだろう。
ガラパゴス化の先例のようなものは日本の長い歴史には数多くあると思う。その中で、連想したのは和算である。
和算が発達した時代で東西を比較すれば、和算が先進的だった部分もかなりあるらしい。その点で和算について自信を持ってもよいかもしれない。
この自信ということが、かなり重みを持っているように思える。
和算が先進的だとしても、ヒルベルトのような功績を残すような発展が望めると考えられるだろうか。この発展性でかなり疑問を持っている。
仮に鎖国が続いて和算が現代まで継承されたとしても、現代数学のような発展があると考えられる根拠があるのだろうか。とても想像出来ない。
そんな話で進めれば、和算は発展性がなく、西洋数学は発展性があるのだとすれば、受け入れて発展の実利を得ることが望ましいと考えることに無理はないだろう。
ここでいう発展性を別の言葉で置き換えても構わない。現行憲法に歴史から学んだことが含まれると考えるなら、前文や条文から歴史を振り返ることが出来るだろう。つまり、憲法を憲法自体に限定した存在とするか、歴史を含めた存在とする認識の違いということになるのではないだろうか。
自主的ではないとする、自信のなさの裏返しのような成立の見方に、視野の狭さを感じるのはおかしいだろうか。
代々使っている和算を大事にして、西洋数学の受け入れを拒否するかのような構図に見えてしまうのはおかしいだろうか。
和算も大事なものを含んでいるから、和算の復活のような活動もあるらしい。
よいものは継承すればよいだけの話だろう。生物の進化に似ているように思える。
先の発展性を歴史から学ぶ対象の範囲の大きさとしてみてもよいと思う。歴史から学べば、それだけ効果的という単純な発想だ。
整理すると、自信と歴史という二つの観点になると思う。それが和算を連想した理由なのだろう。