連続

少し前に超越数について触れた。今回は少し掘り下げてみる。ただし、大学で学ぶことは扱わない。

中学で学んだ二次方程式を正確に覚えてなくても構わないが、何か公式があったことくらいに留めよう。

そのかわり、行儀がよろしくないので、正確な表現をすれば長い説明が必要になることを思い切り省略している。

その昔、二次方程式の公式のように三次、四次、と導き出されると思い込んで沢山の数学者が取り組んでいた。

その時点では、方程式の解は実数というより複素数の全体を埋め尽くすものと考えられていた。

ところが、ガロアという若くして決闘によって亡くなった群を扱って解が存在しないことを明らかにした者が現れて、公式を導き出す努力は止まった。

それとともに、円周率πや自然対数の底eが方程式の解にならないことも次第に明らかになっていった。

つまり、解で埋め尽くされる複素数全体と考えられていたが、解にならない数という超越数が存在することが明らかになったのだ。

√2とかは解になって実数の直線を埋め尽くすと考えられていたが、埋め尽くされるわけではない。

ということは、実数の直線を考えると解で連続していることにはならないということだ。

今回の趣旨は思い込みを題材にした。数学の知識は目的ではない。単に道具でしかない。

一部公式が導き出されるという経験からの思い込みによってさらなる公式の存在が仮定されていた。同じような思い込みがあるかもしれないのだ。

連続という数学での定義は大体εとδを使うことが多いが、日常生活としての感覚では連続そのものを感覚で捉えると思う。そのため、連続ではないという箇所に素直に受けとめられないかもしれない。

もし、ガロアが現れていなかったら、今でも公式を追求しているだろうか。それとも誰かがその役割を担ってくれているだろうか。

連続もそうだが、大概日常生活の感覚では直観的に理解することが多いと思う。しかし、改めて定義に接するとその本質的な理解を深く感じると思う。ん?感じる可能性があるだろう。例えば、円というものは単に丸い形状で直観的に認識するだろう。定義では中心と半径が必要になる。

この直観というものが実は数学の限界ではないか、或いは現在の人間の数学での限界があるのではないだろうか。仮に地球上の人類以外の生物が直観するものの限界が地球人より拡大しているなら、そこでの数学も異なっているのではないだろうか。

例えば、複雑系で扱われるかもしれないが、組み合わせの累乗的数の多さを制御する手段を保有していないが、制御する手段は直観に依存しているかもしれないということだ。

さて、連続に戻ってみよう。方程式の解と超越数で連続になるのだろうか。ここで超越数は便利に使っているから、連続ということになるのだろう。しかし、どれだけ超越数について把握しているのだろうか。

実用的な要請と前世紀からの未解明問題だけが課題なのだろうか。今手元にあるものが解明され尽くしているのだろうか。

数学を実用的な学問というより、人間の思考を客観視する道具として概略的な利用があってもよいのではないだろうか。何かの表現を自然言語だけの利用では限界という認識をするなら、数学の自然言語を補完する言語利用ということも考えられるのではないだろうか。

ああ、それでは公理とか面倒くさいものを想像するだろう。違うのだが、ここは尻尾をまいて逃げてしまおう。