構造失業

今朝の日経の大機小機で触れているが、増税前の数字で判断するのは早いけれど、失業が構造要因というのは共通認識のようだ。

失業の構造要因は、早い話金融政策でなんとかなる失業ではないということだろう。それで話を終わらせることが多い。

さて、構造要因を一つひとつ解きほぐして、失業をなくしていくことが必要なのではないだろうか。恐らく、必要性を感じても、構造問題に触れる困難が大きくて話が終わってしまうのだろう。

目の前の問題の解消を重視すると、解決が困難な問題が視界から消えるような感覚は理解する。しかし、下手なサッカーと同じで、全員がかかりきりになる必要もないだろう。

仕事を根源的に考えると、雇用という側面だけではないと考える。継続的である方が一時的であるより望ましいが、排除する必要もないだろう。雇用市場の流動性が期待されているが、流動性だけを追求する見方があってもよいと思う。

つまり、仕事を小分けして委託受託の市場が成立するなら、仕事への参入障壁は低くなっていると考えられるから、ある意味では構造要因が払拭されたようなものだろう。

これは、以前触れていると思う。記憶が怪しいが、明確な小分け作業を対象にする取引市場というようなものだったはずだ。

また、それとは別に教育の機会は、様々な形式の試行を必要としているように思える。方法はどうであれ、教育の機会によってより付加価値の高い仕事に携わる欲求はあると思う。問題は、方法と提供費用負担の所在ということだろうから、決定版を見つける過程としての試行が必要になるという説明になる。

農業の自由化というより、開放状態を想像すると参入意欲をせき止めているようにしか思えないのは、どこかおかしいのだろうか。土地所有より、農業の企業経営の魅力は、現在の低い生産性が根拠になる。

安心して経済活動が出来ることが、重要な基盤の一つだと思うが、安定した基盤とは見通しのよい経済環境と言い換えたい。通貨や金利といった金融面は、その最たるものだろう。経済環境の見通しがよいと長期的な計画が可能になるということだ。つまり、国内への投資が活発になって雇用も増え所得も増えることになるということだ。

要するに、どれかの決定打を期待するより、あれもこれも努力することがよい状態を作り出すということだと思う。短期も長期も、色々な宿題の解決も、あれもこれも努力を要するということだ。