思考徹底

思考を徹底するということを考えると哲学になるような気がするが、その見方に限定しないで考えてみる。

徹底と対照的な言葉はなんだろう。中途半端だろうか、それとも中庸だろうか。中庸はどちらかと言えば極端に対する言葉に思える。

では、極端と徹底では何が異なるのだろうか。どちらかに付随する意味があるのだろう。

なんとなく、徹底という言葉には努力する意味があるように思える。この仮定で進めよう。

努力することは様々だろう。ここでの意味は努力を徹底しないで中途半端になることと徹底して努力することの対比になると考えられる。

よく聞く有名人の話に子どもに対して夢をもって欲しいということがある。これはこれで夢を実現することの前提になるだろう。

ただ、全てにおいて実現することが努力によって成果に結びつく保証はないだろう。ちょっと思い出すのは、冷戦時のソ連のバレエでは、身体検査で夢を諦める機会を設けていたらしい。バレエでトップの活躍になるには身体のどこかの部分に条件があるという理由のようだ。その理由が確実なら、トップにはなれないが懸命に努力してそこそこの活躍を諦めさせる機会とも考えられる。何がよいかはわからない。

ガロア以前では、方程式の公式を追求し続けた数学者は数多くいるだろう。それだけに努力したわけではないだろうが、結果的に努力は実らなかった。

これは実は難しい問題と言える。公共工事は無駄とされても続ける慣性のような感性がある。どこかで中断する決断をしない限り継続することになる。その判断は一概には言えないだろう。戦前の陸軍を想起する。

ドラッカーの本は読んだことはない。日経の私の履歴書を読んだだけだが、誰かが評したことで納得することがある。ドラッカーは結論を出さないで、二方向のバランスのようなものを重んじているみたいな評だ。これは似ているように思える。

腐敗と発酵は、その仕組み自体は同じだが、人間の評価で腐敗と発酵に分けられる。これと似ているのは、様々な歯止めを突き抜けるという意味で、天才的な業績と特殊な犯罪は似ていると思う。腐敗を抑制して、発酵だけを促進することが出来るのは歓迎したいと言いきれるだろうか。

ただ、言えるのは突き抜ける努力がない限り成果を挙げられない種類の努力は存在するということだ。それを区別することが出来るには何が必要なのだろう。

このことは起業の話と似ていると思う。つまり、何か同形のようなものがあるという感覚を持つ。

中途半端な満足は、突き抜ける努力の妨げになるだろう。しかし、社会的無理解が社会的不適合という評価になることもおかしいと思う。適切な評価がどこかにあるということでもないだろう。そして、夢を強制する不幸も避ける必要があるように思える。

徹底することには、裏表のようなものがあるのだろう。陰陽のどちらかだけという結果かもしれないし、判断が難しいこともあると思う。

要するに、利用可能な資源は有限ということで色々と判断することになるということだろう。そして、その判断の仕組みとして市場というものがあると考える。いや、全てが市場という意味ではない。資源という制約と努力成果の勘案の仕組みという意味で、多分一人の人間の判断にはそのような仕組みがあると理解する。

そして、突き抜ける努力をする人間に対して、他人には理解が難しいという事情もあるということだろう。恐らく、その徹底する努力を経験すると何かを掴むような気がする。経験がないからわからない。

中途半端な成果ということが徹底する努力の妨げになるということかもしれない。それも中途半端な満足の一つなのだろう。