循環促進

人間の血液と同様に、貨幣も循環を促進する方法があると仮定して考えてみる。

心臓が血液は循環させているが、心臓だけ循環しているわけではないと理解する。大動脈はともかく、毛細血管と静脈は筋肉が循環を支援していると考える。

つまり、心臓にあたる中銀の金融政策だけでは、循環が円滑になるわけではないということだ。滞留して金融市場が機能するならば有効活用になるだろう。しかし、金融市場が十分に機能するとは限らない。

ここは、個人消費に絞って考えてみよう。

個人所得は、消費か貯蓄、住宅投資に振り分けると捉えると、消費が増えることは、貯蓄と住宅投資が減る関係にある。だから、消費が増えることが必ずしもよいことと言えるわけではない。そこは念頭に置いておこう。

多分、消費が増える健全と思える道筋は所得が増えることだろう。だから、所得増加は期待されている理由がここで説明出来る。

所得が減って消費が増えることもあるかもしれないが、先の振り分けの通り他が減る関係にあることから、振り分けで他が減らず、所得が増えないのに消費が増えることはないと言えるだろう。

ところが、実は所得が増えないのに消費が増える道筋がある。それは、金融市場からの流れと政府からの流れだ。所得代替と言えるような性質の援助でなければ、将来の返済の前提になるので、時間差所得のようなものかもしれない。

これが既存の枠組みで可能な循環の道筋と言えるだろう。

その意味で、金融市場での個人への融資は世の中からの要請と考える。工夫の余地があると思いたい。

政府からの援助或いは融資も同様だろう。敷居を低くすることが求められる理由も、ここで説明出来る。ただ、援助の場合は使途特定ならば証憑支給が主流になるだろう。保育園とか教育とか、目的が明確な支給については、現金より証憑の方が流用の防止になると思える。

このように既存の枠組みで考えると、発想が貧困だからなのか、限界を感じてしまう。

既存の枠組みにとらわれずに考えてみよう。粗いのは当然だ。

循環とは血液で言えば、睡眠中の安静状態のような基礎的代謝と、活動中の代謝があるだろう。

この擬似化で考えるならば、基礎的代謝に相当するものとしての最低消費或いは必須消費のような概念になるだろう。この部分についての義務化が考えられる。例えば、飲食限定日付限定の証憑給付というものが考えられる。つまり、毎日毎食分相当の証憑によって義務的な消費みたいなものになる。マイナス所得税も同様な概念と理解する。

これをサイト運営の立場で考えてみよう。運営の舞台での循環には様々な工夫の余地があるだろう。多対多の関係を前提にするならば、色々と考えられるように思えるのはおかしいだろうか。

人間の静脈がよくわかってない。よく心臓に戻っていると思う。血管の障害は、なんとなく社会の暗部に似ていると感じる。様々な犯罪や反社会的勢力だけでなく、何かに群がるようなものだ。もしかしたら、循環促進の正面にあるのかもしれない。