情報交流

今朝の解説記事でも、少し刺激を受けた。やはり、なんらかの情報交流の基盤のようなものが効率を向上させると思う。

これとは別な話だが、飲んで書いたことをずっと考えていた。勿論、連続して考え続けているわけではない。いわゆる無意識の思考に委ねたようなものだ。

全てではないが、気づいたことがある。蟻を自分として想定して、虐げられる立場とすると、なんとなく、すっと入った。虐げられる立場なら、それを抜け出したい欲求があるだろう。それらを象徴する気持ちとして考えて、なおかつ、相手を尊重する気持ちということではないか、ということに気づいたのだ。

このことは、どこか真理追求至上主義みたいなところがある立場からすると、理解出来ないことに我慢がならず、否定することが出来ないことが幸いしているように思える。自らの考えと異なる考えを即座に否定することをもったいないと感じてしまう習性のようなものだ。逆に、その習性がなければ容易に気づいくこともあるだろう。それが区別出来るなら、従いたい。

これらのbiasを意識して、抑制気味にしよう。

解説記事に戻ろう。色々な考えがあるだろうが、一つに絞る。要するに、情報交流の範囲が限定されると知識の向上が非効率で、情報交流の範囲が広いと交流技術の向上も微分作用して知識の向上が効率的になるということだ。

絆の範囲に限定する場合比べてと、強い絆以外の臨機応変な絆、一時的絆を含めて範囲を重層的接点で拡張すると、その交流技術が範囲拡張技術みたいな効果を生み出して、一層交流が進行しやすくなると理解する。

これは、外部の会社と深い提携をする会社の経営が良好ということに似ていると感じる。他にも似たような状況はあるだろう。それは、同形と言えるのではないだろうか。

この交流技術を技術としては捉えるならば、解説記事にあるような、例えば研究者の技術を学習することは意味があると考えられる。交流の内容ではない。交流の方法が技術の対象だ。

そんなことを考えると、教育もこの交流技術の部分集合かもしれないと思った。構図として、一方的な情報の伝達を想像すると教育になり、方向を限定しない双方向のような構図がより広い集合のようなものだ。

なんか、この辺りをきちんと整理すると結構なものになりそうな気がする。きちんと出来ないから、依存心がもたげるが、もう少し無意識の思考に委ねてみよう。