掃除

会計透明化は歓迎だけど、義務化まで求めることには素直に賛成出来ない。やはり、どこかおおらかさが必要ではないだろうか。数字を明らかにするのもしないのも国民が判断すればよいと思う。

おおらかさという意味では、やじも同じだろう。その昔、ヤジ将軍と言われた有名な議員が、だるまで親しまれた大臣が、陸軍が○年、海軍が○年、と眠くなるような説明をしていると、だるまは三年とやじったらしい。

金融再生には結論が出ていないという見方に見識を感じた。謙虚としての道徳的評価で結論づけると見失うと思う。継続して努力する必要性を暗黙に主張しているのだと解釈する。この辺りの経験は、金融の問題の恐れがある中国に伝える義務があると考える。

倫理的に理解することに余り賛成しないのは、理解すると捉えて理屈の追求を怠ってしまうことを懸念するからだ。だから、低学年はともかくも経営者教育といったものでの道徳的な教育には懐疑的なのだ。

懐疑的な立場で政治家を輩出する有名塾をみると、そこに落とし穴、見落とすものがあることに気づいた。なかなか深いと考える。

その塾では研修に掃除があるらしい。その説明はあえて聞かないことにしている。仕事の上では理解出来ないことについて説明を求めるべきだろうが、そうではないなら、少しの情報から考えて納得するものを見つけることが楽しいと考えるからだ。説明は知識の獲得になるかもしれないが、そこから深く考えることに向かうとは思えない。つまり、推理小説の犯人を明らかにしているようなものなのだ。犯人探しが楽しいのではないだろうか。

で、一つは理論的に理解する方法が理解しやすい人間と、自ら深く考えて理解する方法が理解しやすい人間がいるということに気がついたことを挙げる。判断材料を広げることが最適値探索の効率がよいというような説明で理解することなら素直に実感出来るが、それ以外の方法で無言で伝えることは時間がかかってしょうがないと考えていたが、理屈で理解しにくい人間の存在までは、実は実感出来ていない。なんで理解出来ないのか、が理解出来ないみたいなものだ。

ところが、深く考える方法は万人に共通するものという原理を支持する立場から、実は人間を深く理解しているからではないか、と納得するのだ。

改めて整理しよう。

掃除で何を学ぶかは、各自の自由としよう。だから、ただ掃除しただけの時間を過ごした者もいるかもしれない。何かを深く学んだ者もいるかもしれない。この掃除で理解することを謙虚な姿勢が問題を鋭敏に感じとれることとしよう。先の理屈のような説明なら、探索傾向のbiasを排除することで情報取得が適切に行える、みたいなことになるだろう。

掃除から読み取ることを読み取れなければ、深く考えて読み取ろうと努力することが前提になる。その前提が覆るとは、単なる掃除で意味の存在を無視することを指す。

深く考えることは、沢山の仮定を置いて、検証を続けるようなものだろう。

と書いていて理屈での説明方法でしかないことに気づいた。そうか、その方法以外がよくわからないのだ。とりあえず、続けよう。

深く考えることは関連する概念を深く広くするものだろう。それは、理解を実感する理解という程度まで深めているのだと考える。つまり、方法自体には合理性があるということなのだ。ただし、必ずしも見つかるとは限らない。なぜなら、各自の努力に委ねられているからだ。

このように考えて、では、人間を深く理解する方法の結果を卒業生から判断して、どうだろうか。それは、わからない。わからないとは、今の政治というフィルターを通すからだ。

ただし、卒業生かはわからないが、刑事事件の被害者に努力した政治家の記事を読む限り、現在の政治でも政治家本来の仕事を真摯に実行する人もいるとみなせる。この事実から、フィルター効果なのかどうか、そこまではわからない。

正直に言えば、格好のよい発言をする能力の高い、そして偉い政治家は全然怖くない。しかし、能力が低くても真面目に取り組む政治家に対しては、頭が下がってしまう。反論する理由を見つける意欲が生まれる自信がない自信すらある。

これは、つまりその人間ではないからだろう。その後ろに控える国民の感じるからだと考える。それが、大久保利道の言葉なのではないだろうか。

米国は民主主義の国だ。だから、強く考えることがある。日本でも有名な大統領が、ある件で、会議の最後に民主的手続きで結論に達したと宣言するのだが、大統領以外全員が反対して、大統領だけが賛成するという結論だ。

また、似ている話がある。これはFRB議長の話だ。賛成と反対の様子を尋ねたら、半々だと言う。反対が半分で、絶対反対が半分。

これをどのように考えるだろうか。国民のためになると強く確信することについては、断固たる実行ということなのではないだろうか。その強い確信を持つことが出来るのは、どのような経験が必要なのだろうか。

そんなこんなが、深く埋まっているのではないだろうか。

翻って、日本の現在の選定過程で、生まれると言えるのだろうか。

警察の指紋照合は、その昔一度見逃したら二度と照合の機会のない方法だったらしい。現在ではシステムが進化して見逃すことはなくなった。

これをどのように考えるだろうか。

システムの進化自体は歓迎すべきだろう。しかし、一度見逃したら二度と照合の機会がないという緊張感を失うことで、何かを失っているかもしれないと考える。

政治のシステムが進化すると、失敗は少なくなるかもしれないが、大失敗を生むかもしれないと考えられないだろうか。

こんな観点で考えると、戦前の空気に似たもの、つまり、大失敗を想定しない認識を当然とする空気に考えが及んでしまうのだ。

今ある問題だけが問題の全てということを誰が保証出来るのだろうか。

なかなか深くて難しい。