委託とただ乗り

何かを他人に任せるという構図だけ切り出せば、委託もただ乗りも似ている。では、何が違うのだろう。

代表的な違いは、制度として存在するのが委託で、正規の制度ではなく実質的に利用するのがただ乗りと言えようか。正規の制度のただ乗りの例は、すぐには思いつかないが、制度のない委託はあるだろう。この違いで区別することは出来なそうだ。

任される側からの違いがあるかもしれない。委託は明確に任されると意識出来るが、ただ乗りは意識出来るとは言えないようだ。これは、理解出来る。そして、ただ乗りの場合は被害者という立場と想像出来る。

他の違いもあるかもしれないが、ただ乗りは任せる側の恩恵と任される側の負担という構図というものが典型と言えそうだ。これを採用して話を進めよう。

選挙権があるのに投票しない理由を投票結果の予想から、他人に任せるというただ乗りとする考え方がある。これはこれで、説得力がある。言いたいのは、選挙云々ではない。ただ乗りの例として、広く解釈出来ることを言いたい。いわば、多数の中に埋没することみたいなことになるだろう。

世の中が複雑になるに従って、一個人で知りうる限界によって他人に任せる領域があるだろう。このような任せ方として、上の委託とただ乗りのどちらか一方とする必要があるだろうか。

先の選挙で考えてみよう。投票しない人は、投票する全ての人に任せることで、選挙のただ乗りをしているとみなせるだろう。このような説明があるとしても、投票した人に負担感があるとは思えない。つまり、負担感がなければ誰も損することのない状況と言える。これでよいのだろうか。

では、負担感が明確な場合はどうだろうか。今回限りなら通じても、毎回となると通用する話ではないだろう。選挙の例にしたため、別の理由で肯定することに抵抗があるだろう。これを抽象的にしてみれば、負担感のないただ乗りは受け入れやすいと理解出来るだろう。

どうも、しっくりこない。一般的な結論を導き出すような話に感じられない。やはり、個別状況で判断することが望ましいようだ。

となると、個別状況に応じて、委託が適切の場合と、ただ乗りが合理的な場合があるのだろう。もっと別の要因が判断を左右するような気がする。それが何かはわからない。しばらく深く潜っていよう。見つかるかもしれない。

ただ、これを書き込む前は、直感的には委託制度を充実することが望ましいと思っていたことを述べる。ところが、その予断は裏切られた。何かに気づきそうな感じだけはするが、認識出来ない。

ブランドを主体的に守る者は誰だろうか。努力と恩恵が一体なら、難しくはならない。つまり、商流として受け口も注ぎ口も両方に対しての委託受託の関係が健全と考えられる。それが崩れると、途端に話がおかしくなる。

プライベートブランドの場合、恩恵だけ自分のものとして、リスクを他人に押しつける状況は、そのおかしくなる話と思う。

委託もただ乗りも、平時だけで判断すると罠にはまることになりそうだ。なかなか深いと思う。