部位の頻閑

尻尾については、動物によって用途が異なる。その多様な理由を使用頻度が少ないからという説明を有名な脳科学者がコラムでしていた。因みに、この科学者は日本固有である脳科学者という呼称に抵抗があるようだ。

哺乳類の体毛も魚類でいえば鱗に相当するらしい。鳥類は羽毛になるようだ。これからも上の説は説得力を持つ。

使用頻度の少ない部位は多様な発達をするという説を少し広範囲の仮説としてみよう。社会の中での活動でも成り立つとすると、使用頻度の多い産業より使用頻度の少ない産業で多様な発達があると解釈する。その解釈で素直に納得してしまう。

使用頻度の多い産業を水道としてみよう。そして、その逆は結婚式の産業としてみよう。この例が不適切なのかもしれないが、やはり素直に納得する。

それでは、無理にでも逆になるような例を思い浮かべてみよう。衣類は使用頻度が多いと言えるだろう。火災報知器は少ないと言えるだろう。これは逆の例として適切だろうか。どうも違うような気がする。

衣類の場合、括ると頻度が多いと言えるだろうが、夏用冬用とか公式行事向けのように細かく括ると、各々では頻度が少ないとも言える。

火災報知器の場合、実際に使用しなくても、所在を明らかにする目に触れる機会を含めて使用と解釈すると頻度は多いとも言えるだろう。

ん?反例に見せかけて説得力をもたせる意図があるような文脈に見える。勿論、その意図はない。しかし、説得力に拘る必要はないだろう。仮説のまま進めればよいだけのことだ。

では、仮説が成り立つとして有効な利用とは、どのようなものだろうか。頻度という軸で産業を評価した時に、多様性を求めることの適切性が認識出来るという解釈が素直だろうか。

また、多様性を求めることを目的とするなら、頻度の少ない分野が適切という解釈になるのだろうか。多分、そのどちらも不適当とは思えない。

では、国民性という観点ではどうだろうか。実は、国民性のように不確かな総称を実体があるかのように使うことには抵抗があるが、話の流れとして使うことにしよう。

多様性がない国民性ということは何かを基準に頻度が多いということで、多様性がある国民性とはその基準で頻度が少ないという解釈になるのだろう。ここでの何かとは、言葉の語彙とか関心の対象とかそんなことになるのだろうか。新聞やテレビといった普段の情報入手手段とすると妙に説得力がある。ちょっと危険な匂いを感じるのでやめよう。

仮に試行や実験方法ということなら、頻度の少ない領域という観点が必要ということかもしれない。

妙に説得力を持つ仮説は検証を経ないで受け入れることになるから、危険と言えばその通りだろう。

ゲーム理論的な説明をするなら、均衡を破ることの難易度を頻度で表現することが可能ということだろう。これはこれで真剣に説得力がありそうだ。

何かの機能要求の外部性と、要求実現手段の変化を何らかの評価で最適値探索すると、変化要因の外部性は均衡を保守的にする方向だろう。これはこれで表現出来そうだ。というより、その方法で証明出来るのではないだろうか。

ああ、これで一つわかった感じがする。何かを求める時に行儀のよい方法を他人任せにしているから、成果を独占する感覚を失念しているのだろう。ん~行儀が悪いことを告白しているようなものだ。本来なら恥ずべきことだ。