黒田官兵衛

元常務員は秋に処分が明らかになると予想する。恐らく前総書記の支持を得られているどころか、その頃から狙われていたのではないだろうか。まあ、推測してもしょうがない。

黒田官兵衛は今の大河ドラマで注目されているかもしれないが、よくは知らない。引退して天下を狙っていないと暗黙に主張したとか、何かの騒乱の際に微妙な動きをしたとか、そんなあやふやな記憶しかない。

名軍師とされているが、評価は様々だろう。読み物として好まれるのは奇想天外な策だろうが、現実としては難しい。好みとしては小細工より正攻法なので、読み物向きではない。

歴史として把握する情報が少ないから、黒田官兵衛として考えるというより、小細工と正攻法で考えてみよう。

場面を戦場とかで特定せず、一般として考えることにする。前もって提示すると好みは上に述べたように正攻法なのだが、拘る意図がないようにしたい。無理かもしれない。

正攻法が成立するのは、使用資源が十分であることだろう。それに比べて、少ない資源でも成果が期待出来るのが小細工ということになると思う。つまり、資源の制約で方法の選択が制限されるということになるのだろう。

正攻法の場合、方法の理解は既知のようなものだから、情報伝達での間違いは少ないと予想出来る。一方で、搦め手の場合は秘匿も戦術の一つになるくらいなので、参加者間での不正確な情報伝達がありえるということだろう。

正攻法ばかり、小細工ばかり、という極端に偏ることは望ましいのだろうか。敵からすれば、判断に迷ったり間違った判断をする可能性が高まることが望ましいと言えるだろう。しかし、明確な敵という存在を前提としない経済行為の場合は適当とは思えない。

方法の偏りは判断が難しい。小細工は稀に実行されるから効果があると考えるなら、その稀な頻度の効果を高く評価するかもしれない。

功率ということと成果の大きさという推測もあると思う。

もう一つ重要なのは、策を考案する人間に対する支持というものだ。小細工でも勇敢な行為に好意的であったり、作戦遂行の負担感だったりすると思う。

要するに適切な状況判断によって、どちらかの方法の選択を行うということになるのだろうが、個々の状況によって異なると思う。

ということで、一応配慮してあるように思える。ただ、好みの理由がわかったと思う。情報伝達の精度を重要としているからなのだろう。そして、状況判断という微妙な采配には不適切な判断の危険な匂いを予感するのだろう。

現実にも言えるだろう。小細工されると信用を失う。堂々と厳しいことを言われた方が素直に受け取れる。秘密にするなら堂々と秘密と伝えた方が詮索の労を回避すると思う。

金融機関のトップは、国会に呼ばれることもある。堂々と証言する人間を信用したくなると感じている。

日曜日の不正論文の特集番組で感じたのは、行儀のよさ、つまり、形式を整える公表方法に対する疑いの予感というものだ。常々、美しい報告書ほど疑ってかかる習性を自覚していたが、番組を見て理解出来たように思える。つまり、本来努力すべきことではないところに努力しているように感じてしまうからなのだろう。

堂々としているということは、隠しごとがないという風に受け取れるということなのだろう。秘密も堂々と秘密と伝えるなら、それ以外の隠しごとはないと感じるのではないだろうか。

記事やノンフィクションといった書く仕事では、隠しごとの扱いには十分な配慮が必要ということなのだろう。

交渉でも同様に思える。相手を信用するから交渉が出来るのだろう。信用してもらう方法は色々あるかもしれないが、堂々としていることはその大きな一つに思える。

仕事の依頼や仲介でも情報提供が明瞭でなければ、信用を得ることは難しいと思う。わからないことはわからないと伝えることが望ましいと感じるが、感じ方は色々だから逆効果もありえる。難しい。

堂々とすることと勝手に仕切ることは似ているが違うと思う。解釈が異なる可能性があるものについては、自分なりの解釈があると述べて請われてから答えるくらいの慎重な姿勢に好感がもてる。解釈の結果を事実であるかのように伝えることは勝手な仕切りだと考える。

小細工を自慢気にする態度で、大体推し量れることもあるから、自慢気にすることはやめたい。ん?自慢気に書いている?