不正論文

今朝の日経の経済教室もよかった。わかりやすく、最後の箇所は大賛成だ。国会をもう少しまともに機能する必要があると思う。

昨日のテレビ番組で、話題の不正論文について特集していた。正直に言えば、なぜ不正を働く欲求があるのか理解出来ない。大切な実験結果なら、他人の手によって検証されることを望むと思うのだが、違うのだろうか。

間違いの指摘を歓迎する気持ちなら理解出来る。修正で済むなら大歓迎だろう。修正で済まなくても根幹を揺るがさない限り行儀の問題という感覚がある。

番組を見ていて感じたのは、組織運営と研究運営というものが明確ではないということだ。両方を司るような強権は、かなり微妙な加減が必要で難しいと思う。任せっぱなしという問題と似ていると考える。

個別事情としては、うやむやにしたい何かを抱えているように想像してしまうので、触れたくない。ただ、細胞の発達具合として、細胞の環境と埋め込まれた情報とで複雑な制御、恐らく確率的制御を考えているので、似たような何かは可能という仮説があると思う。ドンピシャリの初期化細胞というより、細胞分裂の制御という観点での解明ということだと想像している。その意味では期待する。ただし、根本的に実験方法を変える必要があると思う。

不正を働く欲求が理解出来ないと既に述べた。だから、不正抑止の方法を考えたとしても説得力がないだろう。というより抑止の観点では思いつかない。

それよりも、目の前の成果より歴史の評価を監視の目として意識することが重要だと考える。過去の成果から真理を積み上げている当事者という歴史感覚があるなら、後世代へ残すことが自らの成果と考えるのではないだろうか。この考えを主張したいが、必要なことは不正を防止する努力だろう。番組でも紹介された教育も含まれる。目付の題の回でも触れたが、直接関わることだけでなく監視することも大事だと思う。研究の品質問題という観点かもしれない。

組織運営と研究運営の分離問題という見方が適切かはわからない。しかし、予算や人事、その他の資源配分権限の適切な経営は課題として取り組む必要があると思う。必要を感じるところから始めることになるかもしれない。研究成果しか意識になければ必要を感じないだろう。

再現性の為の情報提供が当たり前という感覚からみると内緒にする必要が理解出来ないのかもしれない。具体的な状況が把握出来なければわからないと思う。わからないというより感じないということなのだろう。

不正ばかりという状況とも言える分野もある。同じ数字を見て結論が正反対ばかりという分野だ。まあ、皮肉の類になるだけなので、これ以上触れない。ただ、光の速度が一定であることを羨ましく思うのも理解出来るような気がする。

いやいや、今後注意する必要がある分野もある。難しい。学問上というより行政の上で悩む分野もある。なかなか難しい。

統計的解釈は、統計の専門家を必要とするということだろう。特に、学習させる解析については習熟を要することがあるから、統計専門家の層の厚さが必要ということだろう。ビッグデータにばかり流れるような偏りを危惧する。