意思疎通能力

基本的に○○力といった言葉に疑念を抱いている。特に、○○能力といった生来の力のような言葉に対して強く思っている。

意思疎通能力と括ってしまうと、伝えたい内容が伝わらない場合に能力の不足と解釈されてしまう懸念がある。理解力の問題や内容の深さの可能性を考慮することが出来る人は少ない。

問題があるか、それともないかという問いかけに対して、どの程度が問題なのか明確な区切りが示されてなければ、どちらでも期待に応える返事とは言えないかもしれない。

このことが後々問題を大きくする要因になる。

つまり、この意思疎通能力といった場合、予め伝えたい内容が定まっていて、説明を聞く人間を固定にするような限定された状況で、複数の人間の比較で明確な違いがあるという暗黙の前提があるように思える。だから、上手に伝える人に比較すると問題ということなのだろう。

これが上手になることによって、何かが飛躍的に生産性の向上があるとか、失敗に対する効果的な抑止力になるということなのだろう。あまり得心しない。

むしろ、物事を単純に捉えて断定的に決することが最大級の評価としているような背景を感じてしまうのだ。批判しているのかもしれない。そのような単純な発想に危険な匂いを感じてしまうのは、習慣になってしまっているようだ。

実際に必要とされる状況はわからないが、複雑化していく経済活動の中で、伝達内容が単純ということを想定することに、何かおかしいと考えることは不自然なのだろうか。

今朝の新聞だったか、有名人が原発で悩みを吐露しているということを間接的に読んだが、なんとなくわかる。実のところ直接読んでいないから推測するのだが、物事を深く広く知るということは決められない状態を強めているようなものとも言えると考える。それは、ゲーム理論的にも説明出来る話で、要素を複雑にしたら評価が難しくなるのは当然だろう。

だから、という言葉の後に続くのは、どのような内容が適切と感じるだろうか。要素が複雑だから、要素を単純にするということなのか、評価が難しいから時間がかかるということなのか、色々考えられると思うのか、そのどれかだけが当然と考えるのか、みたいな違いこそ重要に思える。

物事を単純にすること至上主義みたいな主義はないと思うが、一見そのような括りでまとめてしまうと重要の見落としになる。物事が複雑ということを理解して、それらを俯瞰する本質的な見方を見つけるという意味での努力の結果本質を捉えたような見方が単純だったということと、その逆は全く違うと思う。その逆とは、物事が複雑だから、複雑な状況を捨てて単純な情報だけに絞って判断するということだ。

何かの成果の為の過程には様々な因果関係が含まれていると考えるが、意思疎通の場面ではその成果の為の過程の表面を意味する表現が使用されることが多いだろう。その表面だけで十分と言えるのは、その後の経過に依存するだろう。だから、言った言わない、話した聞いてない、みたいな問題になってしまう。

エネルギーのもととは、何だろう。家庭内で使う場面なら、電気や電池で通じるだろう。しかし、場面を特定しなければ、地下資源や太陽光ということを求めているかもしれないし、電力や水素、アルコールということかもしれない。

つまり、質問ならある程度の状況説明は親切とも言えるし、煩雑でくどいとも言えるということだ。

また、同じことに触れるが、対象がかなりの上級者でも初心者でも想定範囲とする課題が全く進まないという経験についてだ。上級者なら、その場で即座に明確にすることで上級者と理解出来る。初心者なら、その場で理解したことを書面にしてもらって理解の程度が把握出来る。そのような想定をして、作業の進捗の説明を求めても、ただわからないという反応しかないと、何も把握出来ない。つまり、どの程度という把握が全く出来ない。初心者に求めることもやらない。そんな経験は、上の親切と大きなお世話のどれかすら理解出来ない状況ということになる。

親切のつもりで、大きなお世話と受け取られる事態と、大きなお世話と予想して親切にならないことは、どちらも不幸だ。

今、思い出したが、best effortという言葉の採用で、英国人と米国人の間で紛糾したらしい。かたや死ぬ思いの努力という解釈、もう片方は単に最大限の努力という意味だといった違いについての争いで、求められた日本人が、日本人はおはよう、こんにちはといった程度に使っているとの返事に爆笑して穏やかに解決したという話を思い出した。

この話は、副交感神経の作用みたいに理解するが、もしかしたら緩やかな気持ちが最大の解決策かもしれない。程度に明確な基準がないなら、上手なキャッチボールみたいに暴投でも問題なく受け取られることも必要なのかもしれない。

しかし、ボールを投げないと始まらない。