茶室と空気

戦国時代のというより、信長や秀吉が出てくるドラマでは茶室の場面が出てくる。

茶室の経験はないが、一旦茶室の中に入ると外でのしがらみを持ち込まないといった気持ちの切り替えのような働きがあることになっている。

このようなことは、襖や障子、或いは衝立で区切られて隣り合わせとは会話を聞かないような働きと似ているところを感じた。勿論、禅や大自然に向き合って、すっかり気持ちを初期化するような働きもあるとは思う。

この衝立だけで、閉じた空間を形成するような働きは、その場に居合わせる人間の共有する認識によるのだろう。

このようなことから、一つの仮説が思い浮かんだ。これらのことから導き出した仮説だから、根拠は薄弱だ。

場の空気を読むとか、周囲と極力同調しようとする傾向は、この衝立効果のように密室ではないのに、密室であるかのような習慣から強化されているのではないだろうか。

そして、建造物の近代化によって密室が当然になってくると周囲同調の傾向が廃れる可能性があるのではないだろうか。

マンションで隣室の音が伝わるままなら、まだ衝立効果があるかもしれない。しかし、音や振動を遮断する効果が高まると傾向の廃れの可能性はあると思う。

別なところに、しっかり周囲同調を強化する習慣が根づいているかもしれない。いわゆる暗黙の了解のようなものだ。

未だに理解出来ないのは、お笑いのギャグだ。同じ行為で笑えるのは、なぜだろうか。周囲に人がいなければ、笑う気になれない。いると、少なくともしかめっ面はしないと思う。それは、目立たない為という理由に過ぎない。そのような効果、つまり周囲が笑うと予想して同調する効果が働いているとしか理解出来ないのは、おかしいだろうか。

言いたいことは、批判の類ではない。周囲同調効果だけだ。

公園とかで遊んでいる子どもたちも、現実の空間を共有するにもかかわらず、遊びの集団で閉じているように思える。それは、電車や食堂の相席に通じるのではないだろうか。

他国の事情を知らないが、相席や衝立のような習慣があるとは想像しにくい。逆に、他国でも同じ習慣があって同調効果もあるなら、仮説の成立になるかもしれない。同じ習慣があって同調効果がなければ、否定されることになるのだろう。

恐ろしいと思うのは、同調効果の強化が尖鋭化することで、排除と同調の区別が明確になることだ。歴史を振り返ると極端から極端へ動いたことを考えてしまう。