幸福と欲求

ある瞬間の幸福の度合いということで考えると、不満が解消されて平穏を感じとれる状態と考えている。

だから、国民の幸福の度合いを表現する数値という意味で言えば、かなり不幸の数値の少なさということに近いと思う。

ただし、これらは限定的な話だと考えている。例えば、不満を感じる範囲を自己に近い人と、世界の人々の不満という人がいるとすれば、自己に近い範囲であれば不満を感じることが少なくなると考えられるだろう。

誰だったか忘れてしまったが、会社の社長を親から引き継ぐ時に、身近なお坊さんから大欲を持つように言われたらしい。その時点で、大欲を大企業に成長させるような理解をしたようだが、その後のお坊さんの話から、多数の人間の欲のような説明を受けてようやく納得出来たということだ。この大欲、つまり多数の欲求に応えることは社長でなくても出来ることだが、社員や顧客、取引先といった会社に直接関係する者達だけでも、素直に受け取れるだろう。そして、難しい。

欲求を定義することは難しいが、他人が喜ぶことも欲求の一つとするなら、上にあげた幸福は難しくなると言えるだろう。

欲求の範囲を拡張すると不満が増えるという関係にあるとすれば、不満解消を欲求の範囲を狭くする方法とする考えも理屈の上では成り立つだろう。それがよいと主張しているわけではない。

仮に、他人の欲求まで含めるような欲求を持つことを奨励する方向と、その逆の方向があるとしてそのどちらがよいのだろうか。

実は答えは既にある。ただし、その答えを他人に主張するものではない。答えとは、判断は個々の人間が行うものという立場なのだ。恐らく、その点は変わらないと思う。

ただし、判断の為の教育の機会を提供することは必要だと思う。それが現在の教育で不満はないか、と問われれば、皆無ではないが満足でもない範囲と認識すると答えるだろう。

欲求も色々あって、他人の財産や権利を侵害して成り立つ欲求を認めるわけにはいかないが、現実に存在する。しかし、これを少なくすることを欲求とする者もいるだろう。直接関与しなくても、支援という形の関与で欲求を満たしていくかもしれない。ある時期のタイガーマスクみたいなものだろう。

言ってしまえば、他人の努力を応援することも、その応援する者にとっては欲求の一つと考えるなら、応援の円滑な仕組みは意味があると思う。なんか、同じようなことを書いてくどいようだ。

一括りの教育で、他人への侵害が減少し、不満も解消させるというような夢物語が実現出来ると主張するものではない。しかし、重い負担を感じることなく出来る選択肢を増やすことが出来るのは、教育も大きな要因だと思う。

ここで言う教育とは、かなり広い解釈をする。偉い人の活動で薫陶を受けるようなことを含んでいる。社会が社会自体に影響を与えるようなものだろう。これをフィードバックの一種と言えなくもない。