他人への口頭での説明

小学生の国語の成績については検証が必要だが、やはり授業以外の効果も高いと考える。自分の考えを他人に説明することも、小学生ならば国語に効果があると思われる。以前、プチ哲学みたいなことが必要と述べたが、国語の授業の一環でも可能だ。国語の場合、考えの内容も大事だが、より重要なのは他人に自分の考えを言葉にして説明することだろう。その場合、文章にして記述しておく方法と、他人の発言を聞いて口頭で発言する方法がある。どちらも、一長一短だろう。文章の記述は、考えを整理して一通りの記述を完結するから、全体の構成とかが養われる。口頭発言は、他人の考えに触発されて即応性が必要とされる。こうしてみると、一長一短に応じて混合した授業でよさそうだ。国語の授業だから、国語の力が養われる目的とすべきと思うが、それらは、他の土台となる力なので、国語の目的でもあるが基礎力として注力していいと考える。大人になってからでも、考えが整理できず、まともに打ち合わせできそうもない人をちらほら見かける。小学校の教育に疑問を持ってしまう。これからの世の中は、知的な生産活動が求められるだろうから、小学校のうちにしっかりと、自分の考えを他人に説明できる力を養って欲しい。多分、力を養うという表現よりも、習慣をつけるという表現が妥当のように思う。小学校では出来たのに、大人になるにつれ出来なくなるのなら、何か別な要因がありそうだ。脱線しそうだ。一度戻ろう。以前のプチ哲学みたいな話は、どちらかと言えば、思考を深めることが目的だった。しかし、今回は考えを表現することが目的だ。それに伴って必要となる力は様々で、基礎的能力だから、小学校では重点的に扱う必要を感じる。また、これとは別に、つまり国語教育とは別に、思考を深める目的の教育の必要性は失われない。むしろ、思考を深める教育の一環で、国語能力を副次的に養う必要すら感じる。適切な名前が浮かべば、より強く好印象で伝えられるだろうが、残念ながらプチ哲学みたいになってしまう。しかし、道徳教育より道徳に効果的で、国語能力向上にも役立つなら、なぜ取り組まないのか不思議だ。恐らく、必要性を感じていないのだろう。教育関係者も親も。小学校の教育の目的は、誰が決めるのだろう。多分、そこに疑問がないのだと思う。