実質的みなし認識

空虚な包括概念をみなし包括概念とした。包括概念を切り離して、みなしを一般化してみる。どんな言葉と言えるだろうか。実際は別の内容だが、端的な内容として認識すること、といえそうだ。その目的の多くは、便宜的に扱う為と考えられるが、一般化する為に、目的は除外する。試しに、他の目的を考えてみよう。実際の内容が空虚だから、というのも便宜的と言えそうだ。ちょっと思いつかない。それで、実際の内容とは別の端的な内容として考える。では、実際にみなしが登場する状況は、どのような状況だろうか。思いつくのは、思考と自身に向けた伝達を含む疎通といえそうだ。思考のみなしは、みなし包括概念だろう。疎通の場合は、言語、広い解釈で記号論の記号だろう。思考においても言語においても、多くがみなし認識といえそうだ。思考の場合は、実際の内容とみなしの不一致は疑問だ。疎通の場合は、不一致は、多いにありえる。多いにありえるにもかかわらず、みなしの多用は合理的と考えられるからだろう。この合理的と考えられるとする点は、批判できそうだ。合理的とするからには、それなりの経緯を推測する。率直に言えば、通じる経験を多数積み重ねているとしていいだろう。ある状況で、疎通の発信者と受信者双方に状況認識もみなしの認識も問題が生じない程度の範囲で一致している、と考えられる。では、その経験以外の経験は皆無だろうか。恐らく、皆無とは言えない。皆無ではない限り、批判の余地はある。この点に焦点を当てて考えてみたい。勿論、無意識の思考に委託する。