みなし認識

店頭で商品を目にして、どのように作られどのように運ばれてきたのかは、あまり気にせず商品の選択に注意が向かうことが多いだろう。狩猟を主としていたであろう大昔なら、狩猟が命懸けであることを知っているから、苦労の結果の食事と認識していたと推測する。つまり、現在の店頭では、大多数は商品の経緯を遮断して目の前のにだけに関心を払う。毎朝配達される新聞も、記事も勿論、配達にも苦労はあるはずだ。事故にも遭うだろう。しかし、大概は新聞の紙面に関心が向かう。生活で関係することだけでも、このような多数の背後関係がある。多数ありすぎて、個々の背後関係まで関心が向かうことは稀だろう。このような目の前の関心事と背後関係も、みなし認識と考える。合理的とされるから、みなし認識の状態を常態と捉えている。また、短い言葉で印象的に訴えかけることが好まれる状況も存在する。政党の主張、商品の売り文句、会社の理念、など列挙すればきりがない。名前というもの一般も、そうだろう。事件や災害にも、通じる名前がある。みなし認識として一般化することは可能だろう。つまり、思考や疎通でのみなしと同様に、これらも一般化したみなし認識と捉える。これらみなし認識は、手段の制約からの要請に従ったと考える。つまり、手段の制約から解放されれば、みなし認識の必要性の一部は解消される可能性をもつ。この点は、重要な意味を持つかもしれない。思い浮かぶのは、人工知能同士の疎通においては、制約の解放は十分考えられる。それが好ましいのか排除すべきかは、わからない。一度戻ろう。環境対策や品質管理、或いは、商品の成分や生産地の情報提供、といった、みなし認識の合理性を転回させる評価軸が出現して、みなし認識にも批判の余地を見いだした。この件は、しばらく無意識の思考に委託しよう。