危険思想

何が危険かといえば、真実であるかのように結論を誘導することだ。真実としての原理と思考の結論としての思想は、実に微妙なものがある。前置きは、このくらいにしよう。率直に述べる。世の中がどこに向かうか、或いは、どこに向かうべきか、という問いかけに対して、目標乃至理想を追いかける節がある。これには、納得しない。恐らく、競うべきは、見たこともない異星人だろう。進んだ異星人に対して、地球人はどうすべきか、という問いかけではなく、異星人より進んでいることを考えることが、先の問いかけへの答えになると考えている。この考えは、誘導しているだろうか。単に一つの目標の設定だろうか。批判できない人に対して蹂躙するきっかけになり得る、というだけで腰が引けてしまうくらい危険思想と考えている。つまり、ちゃぶ台返しになるくらい強力な黒船なのだ。平穏を旨とする思想からすれば、敵視すべき考えかもしれない。しかし、停滞を連想させる平穏よりも進歩を連想させる競争の方が遥かに誘導しやすい。その意味では、危険な思想と言えそうだ。しかし、選択の一つとするなら、途端に魅力的な道具に見えてくる。紙一重の差の微妙を感じてしまう。つまり、あくまでも選択の一つとして取り扱うことで、道具として利用すれば有効だろう。では、別の目標らしきものはあるだろうか。地球や太陽の寿命を想定するのも、選択の一つになるかもしれない。要するに、現在の国際問題にしても小さく見えてくるくらいの課題設定は、何かの契機になる期待はあると言えそうだ。その目的に向かうのが原理の積み重ねなのか、思想の競い合いなのか、みたいな話なのである。そして、危惧するのは、原理と考えるが故に危険思想を孕んでいると抑止としても考えるべきと思う。