勘違い

奇数の完全数は、勘違いしてました。すみません。でも、めげないで取り組みます。ガウスとオイラーも間違えてました。

人間は、勘違いを起こす動物だと考えるから、当然色々と間違いを起こす。それを寛容に考えることが、世の中の進歩を生む。間違える当人の言葉では説得力はない。

企業の不祥事についても、対応がきちんとしていれば、寛容であるようだ。ただ、報道関係者の判断に依存しているようで、具体的にどの部分で判断されているかはわからない。

食品や薬品、運輸関係の不祥事は、直結を想起させるから緊張感がある。事業所での事故は、ほとんどの場合、影響が事業所内にとどまるが、影響が外部に及ぶ場合には、その影響範囲で緊張感が大きく異なる。原発事故は、最たるものだろう。

事故が終結するならば、原因とかに関心が向かうが、終結の途上であれば、その状況を知りたいと思うのは、普遍性がある。それは、事故に限らない。

日常とは異なる事態に関心が向かうことに普遍性があると思う。目下の対応に勤しむ以外は、あてはまるだろう。

対応する者と情報を整理する者は、分けることが肝心だ。それが、上司を含めて周囲からは、両方の役割を求められる。ある人からは、対応の役割を、また別の人からは情報の提供の役割を求められる。そのような、通常とは異なる事態への取り組みの経験が不十分だから、役割分担の意味が理解されていない。

外から見ると、そのような経験不足の組織だとしか思えないことを目にする。不思議だ。

だから、頑張っている当事者に頑張って欲しい気持ちと同時に、対応のまずさでせっかくの努力も好感度を下げる歯がゆさに悔しさを感じてしまう。

例えば、予告なく電車やエレベーターの停止や停電をどのように思うだろう。また、例えば、未経験の近所の大きな音をどう感じるだろう。それは、先ほどの普遍性に通じる。公共的なものであれば、情報の提供不足を問題と感じると思う。しかし、近所の音は、必ずしも義務的には思わない。その差を考えることは、もしかしたら大事かもしれない。

これが、人間が原因ではなく、動物や自然が原因ならば、どうだろう。近所の音も、動物や自然が起こした時に、情報の提供と思うだろうか。その差もある。

日常とは異なる事態には、色々ある。それは、仕事の上でも同じだ。複数が関わる時に、日常的な状況と認識する者とそうではない者がいたら、情報の提供不足と思うのか、情報は提供済みと思うのか、そのどちらが正しいとは、直ちには言えない。

他人を寛容に考えることは、判断を幅広くするはじめの一歩だと思う。