予断

人間は経験の範囲でしか理解できない。他人の考えを理解する時も、これはあてはまる。

効率的に理解しようとして、逆に効率が悪いこともある。その典型例が予断だろう。ある程度の枠組みを予め準備して、情報を取得したら、その準備された枠組みで理解しようとするものだ。

実は、そのような準備の良い相手は苦手だ。ほとんど例外なく失敗する。相手の想定通りの話になれば成功だが、事前に知らされてなければ伝えるべきことが話す内容になるから、それが相手の想定とずれているから相手が混乱する場合と、伝えるべきことが伝わらないで話が重点的になってしまう場合がある。一つは、相手を尊重し過ぎて、常識的なことを省略してしまうことにも原因はある。

予断は効率が良く成功することが多いのだろう。そうすると、相手にとっては成功する場合は常識的で、失敗は準備が悪かったのか会話相手が悪かったのか、みたいな原因追求になってしまう。

難しい。こちらが責任を感じるから踏み込んだ説明が必要と考える。それが逆効果ならば、どのように説明すればいいだろう。恐らく、説明内容に応じた事前の知識想定を伝えられるならば、それにこしたことはない。相手に予断の機会を与えるようなものだ。

自分が相手の話を理解する時の予断は、どうだろう。理解できないことは、相手が説明できない時で、説明に窮するならば無理には聞けない。しかし、全く言葉が出てこない場合は違う。仕事の上で会話を省略して済むことは、まず有り得ない。その意味では要求は義務だと思う。

予断の会話の典型例は、回答が選択肢になっている場合だろう。質問の言葉に対する説明の要求は義務だと考えるが、選択肢まで準備していると、説明の要求は想定外なのだろう。多くの場合、却下以前に回答が順番として優先される。このような例は、国会でもありえそうだ。確実にあるのは、犯人からの要求だ。

予習のつもりかもしれないが、予断が強く感じられる相手は、そのような律儀さは持ってそうにないから不思議だ。恐らく、予習するような律儀な者は、相手に合わせることを優先する律儀さが勝つのだろう。予習ではなく予断を持って取り組む場合は、効率を追っているのだろう。

訪問営業では、初めての顧客の場合もあると思う。失敗を恐れる必要はないが、失敗から努力の材料を拾う機会を失う必要もない。何に気がつくかは、教科書がある訳ではないから、気づく努力が必要だろう。

相手との会話で、微妙なずれの違和感を感じる敏感さは、どのように育まれるだろうか。その観点で考えるから、見つかると思う。

訪問営業というだけで、既に相手には予断があると思う。構図は同じだと考える。