黒人

今では、黒人が迫害されていたとは、本の中の歴史のようなもので、実感を持てない。半世紀程前のキング牧師の演説は、歴史だ。

だから、という訳ではないが、現在当然と思うことも、しばらくしたら、当然と思わないかもしれない。街中で当たり前のようにあった電話ボックスも、今ではそうでもなくなった。このような例は、沢山ありそうだ。

それが時代の変化とされれば、否定はできない。しかし、変化に気づくことと、気づかずに経過することがある。違いは何だろう。民営化や法の制定、建築物の完成、といった区切りが明確な場合は、多分変化を意識できる。徐々に変化していく場合は、いつの間にかの口だろう。

上司が外国人や女性、障害者、或いは、社外の人間といった状況も考えられるが、今は例外的に見られることも、そのような事例が徐々に増えて、いつの間にか常識的になるかもしれない。外国人や女性は、かなり高い可能性と思う。

予想してもしょうがない。しかし、受け入れる原理のようなものがあると思う。主義主張で受け入れると納得することもあるかもしれない。仮に、そのような主義主張があるとして、その受け入れる全てが一つの主義主張で成り立つだろうか。その説明で納得するのは苦しい。幾つかの主義主張に分かれるとしても、納得には無理があるように思う。やはり、抗うより受け入れる便益が勝っているからとする説明に納得する。

そのように考えると現在、心理的に抵抗のあることを考えてみると、それはもしかしたら時代の変化の対象になるかもしれない。ただ、経済効率で決まることとするのは短絡的だろう。例えば、人権に関わるようなことについては、経済効率で決まるとは考えにくい。科学技術で、生命の根幹に関わるような操作には、かなりの抵抗があるだろう。よほどの便益でなければ、難しいと思う。勿論、一括りにはできない。

一度戻ろう。黒人の話であった。同時代として実感を持つ人もいるだろうし、歴史に登場する出来事としての知識と考える人もいるだろう。現在と比較して、どのように考えるか、で時代の変化を考えてみた。それ以外にも、考えてみる観点はあると思う。材料として、黒人に限定する必要はないが、何らかの共通点は必要だろう。

何か一つについて、それをきっかけに周辺を考えるのは、整理がてら、何かの役に立つかもしれない。