経営学の基礎論

数学には、数学基礎論がある。その経緯は、簡単に言えば逆理という批判に対する真摯な反応と思う。

経営学は、一体何を目的とした学問なのか、とか、効果の検証とか、何がしかの基礎付けの必要性を感じないのだろうか。外部から見ると、経営考古学か、仕事修行と見えなくもない。

卒業後の活躍ぶりで学問の信頼性を保つならば、権威に名を借りた、いわば現代版信徒養成所のようなものではないだろうか。

いつものように、経営学自体を批判している訳ではない。基礎付けで確かなものにすることで、数学のようにより盤石になることを期待する意図があるからだ。

実は、数学基礎論にも批判的だ。というのは、地球上の人類とは別の知性が、数学のようなものを確立しているとして、数学基礎論は比較として普遍的といえるか、という点で疑念がある。別の基礎論の可能性を否定して初めて疑念が払拭出来ると考えるからだ。

例えば、経営者が、具体的な理論を使用したならば、それは検証に耐えられると考える。方法は問わない。なぜなら、何を基礎とするか、その設定自体が問われている。

成績優秀な学生を集めて、例えば、野球の采配ぶりを議論したり、寺の修行をして、一切経営に関する講義がなくても、卒業後、それなりに活躍する実績があるとしたら、どのように考えるだろう。

経済学は、実際に社会に還元された実績がある。というよりも、経済学を抜きに成り立たないと思う。それは、互いに批判する論争が確立した理由かもしれない。現実の問題への対応に迫られたからかもしれない。

基礎論を確立させず、このまま進むことを想像すると、経営学は、権威を確立する方法だけが得意で、その権威を借りて理論を形成して信者を増やすだけの存在に堕ちてしまう危惧を持ってしまう。一旦確立した権威を批判することは困難だ。その暴走する危険性を、自らの影響の大きさに謙虚になって感じる必要を問うものだ。

何に対して真摯になるか、恐らく、それが問われていると思う。ここで、特定する勇気はない。というよりも、すべきではないと思う。自らが導きだすべき問題だからだ。

そのような事態に、数学は便利だ。その歴史に学べることが多い。数学を理系の学問とする理解が一般的だ。理学の号になるから、当然と言える。しかし、頭の中の真理の追求と考えるなら、文系ではないだろうか。

一度戻ろう。

社会に貢献することを大前提とするなら、基礎付けは確からしさを高める効果がある。それは、実践しか認めない考えの者への確かな説明になると思う。逆に、放置して批判もなく権威を高めるだけの道を突き進むならば、歴史を振り返る通りの結果をもたらすだけだろう。

知識の蓄積というものを重視する立場から見ると、理論の蓄積か、困難の乗り越えというものが感じられない。主観的で申し訳ないが、単発の理論に体系を形成する感触が持てないと、漠然とした壮大な不安がもたげてくる。

他人の努力を冒涜するようなことはしたくはない。そんな意図はないが、基礎付けのような前提を省略する失敗を歴史に見ていると、大きなお世話をしてしまう。その大きなお世話が、批判めいて解釈されてしまうのは、つらい。