マンガ

外国資本で再生エネルギーのニュースは、驚いた。再生エネルギー自体は驚くものではないが、その発想に感性を感じた。誰だろうか。

やなせたかしさんが亡くなった。この人も独特の感性を持っている。マンガは知らないが、コラムを読んで好きになった。主人公の声優のコラムにも好きになる理由が見つかった。

マンガは、発想が小説以上に豊かな気がする。最近は、小説のように距離を置いて自分なりの筋書きを想定しながら読んでしまう。だから、その世界に没頭して楽しむことが出来ない。

最近ではなく、昔なら没頭して素直に楽しんでいた。読んだら読み終える度に忘れるものばかりではなかった。今でも思い出せる場面は幾つかある。面白いのは、読んだ時に感動した場面と、今でも思い出せる場面が違っていること。その間での経験とかの違いによるのだろう。

原作と作画の役割分担だけでなく、組織的な作業は他の生産活動でも参考になると思う。

どんな手順があるのかは知らないが、一話完結か、ストーリーものか、で大きく異なるようだ。作業工程の紹介だけで、本が一冊作れると思う。出来ているかもしれない。

青年誌とかの派生で、領域が拡張されたように、ニッチ市場狙いというかマニア狙いというか、そのような専門的なマンガもあって、一つの業界と認められるように思う。

だから、これらを支援する気持ちはよくわかる。ただ、建物を建てるような発想とは違うような気がする。

この違うような気がする感じは、ちょうどマニアックな情報技術への資本での支援に似ている感じだ。これで伝わらなければ難しい。しかし、少し試みる。

やりがい、熱く語れるもの、といった関心の先の共有感から遠い存在として受け止められてしまっている。だから、共有の場の違和感のない自然な環境提供に徹すれば良いような気がする。

例えば、ある仲間と認められるなら、店に何時間でも粘れることが許されるような、ある種の特権意識が無理なく感じられるような環境とでも言えよう。勿論、その店では、一般客の長居は許されない。

このような環境整備を公的に行うのは難しい。もし行うなら、何かと紙一重だ。しかし、逆に言えば、その紙一重を公的に制度化出来れば、劇的な効果を発揮すると思う。むしろ、こんな感じのことが特区なのではないだろうか。

感性を共有する難しさは、どこにあるのだろう。克服出来るのは恐らく、ただ相手を尊重して学び取ろうとする素直な謙虚さだと思う。そして、それは他の同形の構図の存在がある。