対等意識

今朝の新聞で、期待を解説していたが、趣味があうのがよくわかる。とても不思議だ。解説の内容は、確かに聞いたことがあるので、新鮮とは思えない。だから、不思議に感じる。

音楽のように、作曲が誰か知らされなくても、好きならわかるような感じで、説明出来ない。どこかに理由があるはずだ。でも、わからない。文学的な文章ではない。理詰めの文章だ。どこに趣味の要素があるのだろう。よくわからない。読み終えて、こんな感想を漏らしたら、敬遠されるだろう。

昨日のNHKスペシャルを見て、今までの考えがある程度まとまりそうに思えた。うつ病の話題ではあるが、番組で紹介された理由より少し広く解釈した。

番組で紹介された理由には、幾つかあるが、中でも、神経経済学のような実験結果からの結論に着目する。そこでは、分配について相手と自分の比較で、平等の場合と、どちらか一方が多い場合とで、原因となりうるストレスホルモンの分泌量が異なると結論づけた。つまり、平等に分配するならうつ病にならず、不平等に分配するならうつ病になるみたいな結論だ。

これを少し広く解釈した。自己を肯定されるか、否定されるか、みたいな極端な方向からの視点で見ると、否定されるような状況は恐怖のような感情に類似したものとなり、短期的には逃避なり攻撃なりの、状況を打開する行動の契機となるのではないだろうか。その状況が長期均衡になると、うつ病のような状態になるのではないだろうか。

さらに考えを進めると、その状況を共有する層をなす集団と化すと、破綻的事象としては革命であり、その手前の類似の集団的活動になるのではないだろうか。

これが、いわゆる造反有理を説明する背景と考えられる。

ここでマルクス主義みたいな話が登場して驚く。実は、体系としては納得するものではないが、真理が部分的に埋め込まれていることも想像出来る。もう一つが労働価値説だ。この説を否定出来るとは思えない。やはり、真理として価格を考える上で視野に入れるべきと思う。

状況を共有する層という概念は抽象的な表現だ。例えば、勝ち組負け組の負け組みたいなものに相当する。少し懸念をもって眺めれば、勧善懲悪もその構図を促進させる。構図を成す評価を特定せず象徴として勝ち組負け組という表現を使えば、ある客観的事実が負け組に属するとされる通念が恐ろしい。しかも、その事実が容易な努力では克服出来ないならば、状態の常態化が直線的な流れに見えてくる。

極端な思考と思われるかもしれない。しかし、現代のデジタル化の進展した世界では、そのデジタル評価を根拠をもって反論する場が用意されていないと考えれば、決して拙速の懸念と断じることは難しいだ
ろう。

以上のようなことは以前にも触れたような気がする。現在は、根拠を示す将来に期待して、探索可能な原理を有する仮説と考える。つまり、他の誰かでも導き出し可能な原理と言うことだ。ただし、その根拠としての検証可能な観察結果が全く提示されていない。

もしかしたら、思想としては通用するかもしれない。だが、ここでは仮説として捉えたい。

先の同形な構図は、テロリストが代表的だろう。そして、仮説が成立するならば、構図を崩すのは存在の肯定の表明ではないだろうか。余りにも抽象的表現だが、逆に言えば、実現手段に制約を排除する。

少し和らぐ話に転換しよう。

親子のように長く接する間柄では、子どもを叱る時と褒める時に注意が必要だと思う。

叱る時は、存在の否定を払拭して、対象部分に限定して、その理由を説明することが望ましいと思われる。

褒める時は、結果ではなく、努力を対象にすることが望ましいと思われる。結果を対象にすると、存在の肯定を暗黙に認めてしまうからだ。つまり、評価の誘導が褒める行為に埋め込まれていると考える。

なんとなく、一つもやもやしたものを吐き出した気分だ。残りも、ゆっくり吐き出してみたい。

同じ人かもしれない。かな?