清貧知的生産

数年間成績の良い経済関係者の話で、自分の考えを正当化する統計情報と否定的なそれを選り好みしないようにしているようなことに触れていた。この姿勢が大事なのだろう。実験結果に対しても同じことが言える。

前回に洩れていた。忘れてしまったことがある。それは、金額評価は暴力的で、否定が困難だと言うことだ。例えば、絵画の美しさは、確かな数値で表現出来ない。

金額という数値は、その数値に対する考えに個人差があっても、数値自体を変更することはない。それが数値という厳然とした存在である。経済学は、数値に対して中立の立場で形成している。だから、数値に対する個人差を認める立場からの批判には意味を持たない。つまり、広く社会学的に考える必要があると思う。

極端に考えると見通しが良いことが多いという経験を持つから、とりあえず極端に考えてみよう。

他者からの自己の評価を、数値として捉えるとして、仮に金額評価と美的評価という数値で考えてみる。

美的評価という数値に、どれだけの威厳があると認識するか次第ではあるが、率直に金額評価程には、客観的数値とは認識出来ないと思う。なぜなら、美的評価には個人差がつきまとうと考えられるが、金額評価には個人差というよりも、普遍性を認めるからだ。

他の評価を例にしても、個人差を払拭することが困難だと理解出来ると思う。つまり、それだけ暴力的なのだ。

これらを事実と仮定して進めよう。

自己を否定的に捉えるような衝動には、色々あると思うが、経済的評価をその一つの候補とすることが出来ることが、先の仮定から導き出される。

さらに仮定の方向で進めよう。

この否定的認識への対応として、何が考えられるだろうか。一つは、経済的対応として優遇措置が考えられる。一つは、否定的認識を誤認とする取り組みだ。前者はいわば伝統的解決方法だから、ここでの範囲の外と考える。

否定的認識の誤認とは、何だろうか。誤認という言葉は適切ではないかもしれない。例えば、ソクラテスのような存在だろう。

その昔、最後の相場師と言われた人は、数年間の貧乏暮らしの間に猛勉強したらしい。それ以前の実績から、稼ぐことは容易だったと思うが、あえて貧乏暮らしをすることに不思議を感じるが、ソクラテスのような存在と考えると理解出来る。

率直に言えば、貧乏暮らしを否定的に捉える通念がなくなると、清貧で知的生産活動が生まれて、結果的に社会に還元されるのではないだろうか。そのくらい、他人の生活姿勢に対して多様性を認めることが望ましいと考えている。

さらに話を進めるならば、他人の生活姿勢に対する許容範囲が狭いから、先祖伝来の何かの処分を顕在化するようなことを恐れているのではないだろうか。

何かを主張する意図はなかったが、結果的に主張のような流れになっていることは認める。だが、そのような見方があることに気づくなら、それは意図として率直に認める。

前回と比べて辿り着くまでの道程が長いから、原理と主張するつもりはない。しかし、直感する。

仙人生活が結果的に多大な貢献の可能性という素直な表現の方が伝わりやすいような気がする。説明することにこだわっているのかもしれない。

他人の価値観への許容範囲という意味では、会社内での世代の違い、特に新入社員への許容範囲は、驚くべきことが多々ある。多くは、新入社員の価値観では、ある。範囲外に対して全否定と全肯定のどちらかしかないなら、恐らく全否定が採択されるだろう。しかし、全否定と全肯定の間に最適値があるかもしれない。