行儀の問題

論文の問題については、行儀の問題と真実の問題に分けるべきで、行儀の悪い身としては他人事ではなく堪える。

行儀の問題として疑わしく感じてしまうのは、その姿勢の厳しさとしては理解出来る。なぜなら、自らの実績を冒涜するようなものだからだ。

一方で、真実を追求することを至上と考えるなら、行儀の悪さはたいした問題ではないという見方もあるだろう。それがなければ、真実が得られないという立場だ。

もし非難するなら、自らの実績が誇れる人なのだろう。専門外の人間は埒外だ。

それはそれとして、再現性も大切なことだ。他人が再現出来るように、自らの記録は精緻に残す必要がある。これは行儀の問題とは別に真実の追求という姿勢として必要なことだろう。なんとなく出来ました、では真実とは言えないだろう。出来たけど、再現条件を記録に残してないということは同じことだ。

理論上で他人が検証出来ることなら、比較的容易な話になるのだろう。間違いを指摘して修正すれば済む。そこには行儀の問題はあるとしても、信義の問題と捉えるのは難しい。

行儀が自然とよくなるように支援体制が欠かせない。暖かい目も厳しい目もどちらも、その気持ちの現れだと思う。行儀としてではなく、目的の認識の問題に思える。

目的の認識についての修正問題は難しい。わからないことがわからない状態だからだ。もしかしたら、仕事を作業と勘違いしていることと似ているかもしれない。現在、実感している最中だ。