国民性

米国を除いて、昔からの国の性質のようなものは変わらないような気がする。勿論、根拠のない感覚の話だ。無責任だ。

インドも混沌として秩序を感じさせないが、それは昔から今にかけて同じなのではないだろうか。中国の王朝の交代も同様に現代においても変革を求められているように思える。日本の狭小の中の雑多も昔から変わらないと思う。

本質的に国民性というものが存在するならば、今後も変わらないのだろう。しかし、国民性というものは、表面的に把握出来ることであって、人間は周囲からの影響が極めて高いという立場から見れば、変わり得ると考えている。

ただし、変化の経路はわからない。例えば、変化の方向性について共有化出来て、その方向への変化に対する評価が高くなれば、それは変化の経路として説得力がある。しかし、果たして共有化出来るだろうか。

日本の国民性をどのように考えているかは様々だろう。上に挙げた狭小の中の雑多を簡単に説明しよう。別の国民性でも構わないが、仮に決めてみるという程度の話と考えて欲しい。

自分以外の人間を受け入れる受け入れないの違いをかなり高い優先度をもつので、受け入れて欲しい為に一定の範囲の価値観を共有化する方向への努力が自然と行われ、その努力を怠ると受け入れないという、言わば価値観の範囲の狭小性があると認める。しかしながら、受け入れる前提の上での未知への好奇心も旺盛であり、その好奇心という他人からの関心をもってもらう努力も高い評価となる。それが雑多であり、あわせて狭小の中の雑多ということだ。

さて、ここでは二つ挙げたが、その説明で気づくかもしれない。受け入れるか否かの点が、国民性の本質的な点だろう。他は表面上の話なのだ。つまり、受け入れる受け入れないという点をなんらかの方向性が見いだせれば、国民性の変化が生じ得るということになる。

仮の国民性が違っているなら、その前の段階として国民性への認識の共有化が必要になるということだろう。果てしなく難しいことと考えるか、簡単な話と思うか、それはそれで千差万別だろう。