本塁打王の表計算

野球の本塁打の世界的記録を作ったある過去の名選手は、真面目人間で有名だ。そんな人でもパソコンを使う話になんか微笑ましい想いをした。

私的行事の参加者をパソコンの文書に記録する作業を見かけた人が表計算を紹介したらしい。その後、その参考書を見ながら作業する光景を目撃したようだ。

野球の世界なら知らない人はいないだろう。そんな人でもパソコンに取り組んでいる姿を想像すると微笑ましく感じるのはなぜだろう。

パソコンでなく、カラオケで流行の歌を練習している姿を想像しても微笑ましく感じる。だから、何か共通点があるのだろう。

惚けた一言で有名な名監督では、どうだろうか。これは、ちょっと想像しにくい。恐らく、要領よくこなしてしまうと考えているからだろう。

ということは、先の名選手に感じている特有なものがあるのだろう。それが何かは、わからない。

しかし、このようなことでわかることがある。それは、他の何かと比較して違いを見つけることでわかるということだ。

これは、別の実験を連想させる。マウスにある特定の波長の音だけしか聴かせないと、別の波長の音が認識出来ないという実験だ。

ここから先は不確かな推測になる。

特定のことだけを経験すると、類似の経験の違いを認識する場合と認識しない場合があるとしよう。認識しないのは過去の経験を括っていて、認識するのは微妙な違いを違いとして経験しているのではないだろうか。

数多くの類似経験も一つの代表経験で経験したこととして記憶するということは、記憶としての情報に関連する情報が多くないと考えられる。

一方で、類似経験の微妙な違いを認識していれば、豊富な関連情報が記憶されているのではないだろうか。

この仮説が正しければ、単発の経験より何かが違う別の類似経験も経験を豊富にすることになるのではないだろうか。

逆に、予断を持って臨んだ経験は貧弱な経験になり、予断なく真実を求めるような姿勢で取り組めば経験は豊富になるのだろう。

余り触れたくないが、武芸や芸能のような日本の色々な道とされる稽古ごとは、そのような姿勢を求めているように思える。この結びつけは、実は拒否したい気持ちが強い。その説明は別の機会にしよう。

戻って、経験をより豊富に積むことを目指すなら、何かの微妙な違いを見つけるような姿勢を常に出来るとよいのだろう。そのような姿勢が身につく方法はなんだろうか。

今回は驚いた。こんな話になるとは想像しなかった。今回のようなことになるから面白い。ただ、打率は悪い。