包括概念

自動車を運転することに通常は違和感を感じないだろう。また、歩行者として白線を踏むことにも違和感を感じないだろう。

では、ガソリンを積んで事故になれば他人を死傷させる可能性があることを知っていたか、という問いにどのように考えるだろうか。また、何人もの何台もの通過で白線が消えることを知っていたか、という問いについても同様だ。

別に何か具体的な裁判とか、このような事例で何かを主張しようとしている訳ではない。

状況を考えずに、単に犯行と決めつけて犯意とすることの危険性を主張している訳でもないが、包括概念だけで物事を捉えることの危険性は主張したい。

ここで言う包括概念とは、脳の中の知識の構成は複数の断片的情報の関連の組み合わせと考えていることを前提として、具体的内容としての関連情報を代表する情報を指し、特に具体的内容がない代表だけの情報を指すことが多い。というような説明は昨年の今頃していると記憶する。

世界平和という言葉が典型的になるだろう。その具体的内容は一体どのようなものだろうか。余りにも抽象的過ぎるかもしれない。

具体的内容が存在する場合は不幸な事態になりやすい。上の例のように予断をもって捉えると予断の違いだけで真実は同じなのに状況認識が異なることになる。それは歴史認識も同様だろう。

このような認識の構図を知っていて悪用することもあるだろう。知らないでそのような構図になっている場合が多いとは想像するが、意図的に決めつけて判断することを避けることに努力した方が何かとよさそうだ。

恐ろしいと感じるか、感じないか、それはわからないが、言葉だけでわかったことにして議論が進んでいる状況をどのように考えるだろうか。恐ろしいと感じるのは、どこかおかしいのだろうか。

包括概念だけの議論には、どこかおかしい匂いを感じることが多い。そのような構図をもう少し説明に耐えられるようにしたい。