理由と方法

何かを学ぶ時ということで考えると情報の伝達という見方になるのは、学ぶことへの観念が固まっているのだろう。

詩か歌詞かに、重要なのはhowではなくwhyだ、みたいな有名な言葉があるらしい。それがどのような題材で歌われているかはわからないが、今回の話と似ていると思った。

また、著名な経営者とかスポーツの指導者は教え方として情報の伝達ではなく、自分で考えるように仕向けることが多いような気がする。これも似ていると思う。

報われない状況を脱して周囲から認められるような努力の多くも、単に情報を取得する努力ではなく自ら切り開く努力のような気がする。

昔、日本海軍がいち早く飛行機の力を認めながら、なぜ空母ではなく戦艦、しかも巨大戦艦を作ってしまったのか、を考えたことがある。史実に基づくなら、飛行機の研究と大和建造の時代比較が必要だが、事実を確認するまでのことはない。真珠湾で大々的に世界に宣伝してしまったのだ。それでも、巨大戦艦を利用し続けたと見るか、投入戦力を見るか、みたいな違いでしかないと思うが、旧式戦力を新式戦力に変更することへの抵抗という見方に思わず納得してしまいそうになる。

この納得してしまいそうになる理由も、なんとなく似ていると思うのは、こじつけだろう。

しかし、脳の中に保有する概念は関連する概念が多く関連が強ければ、確立もより強固になると考えている立場からすれば、学ぶ対象を強固に獲得するなら、関連するような修得方法は効果が高いと思う。howとして情報の取得という学習方法は関連が薄いが、whyとして関連する情報を複雑に組み合わせる学習方法ならば関連は強固だと思う。

ちょっと前にイルカのショーを催す施設が小学生を対象にショーの一部の実演まで出来る講習をニュースで紹介していた。この時、映像で小学生が立派に成功させていたが、これはhowの学習方法だと思った。新しい演技をイルカに教えるということを考えた時に、どのように考えるだろうか。別に批判する意図はない。

つまり、新しい何かを必要とする状況を想定するなら、打開策が必要になり、その打開策ということを考えた時に、howではなくwhyということになるのだろう。まあ、これも言い古されていることではある。

だが、なぜ言い古されていることが繰り返されることになるのだろうか、という問いをどのように考えるだろうか。

一つには、現状認識としての枠組みの想定に問題があったということではないだろうか。もう一つとして、学習方法の認識が元々ないこともあるかもしれない。つまり、言い古されていることも、念仏のようなお題目扱いと化している可能性を指している。

スポーツの試合で負けて、次の試合に活かすような状況を考えた時に、練習内容を変更するようなことは考えられないだろうか。負けた時点の現状認識として既存の練習内容で十分とする見方と不十分とする見方の違いを考えたら、上の枠組みの想定ということにならないだろうか。

不良品とか品質の問題を認識した時点で、枠組みの想定という問題と考えることは必ずしも実行を要する訳ではないことにしなければ、上の話と同じことと言えるだろう。

その意味でメンタルヘルスは経営課題なのだ。今朝の日経新聞の経済教室に賛成。

認識の問題は難しい。狭い範囲で問題を矮小化させてしまうのは、恐らく様々な脳のbiasが理由だと理解しているが、意識して矮小化から遠ざかることも出来ると思う。それがどのような方法かはわからないが、whyとして認識しなければ難しいのではないだろうか。