設備保守

誰かが言っていたが、年金の見通しを大本営発表と称していた。思わず笑ってしまった。

ちゃぶ台返し大会があることにも笑ってしまった。しかも、既に何回も開催されている。

思わず笑ってしまうというのは、予想していない状態が暗黙にある。年金の話も怒りとか諦念の心境で読んでいるところにツボにはまる表現に遭遇したようなものだろう。ちゃぶ台返しは、いわゆるお笑いの型という仮想世界の中の話と思い込んでいるから予想外に思えるのだろう。

予想外は笑える状況なら歓迎したいが、相手の言動が予想外という状況はなかなか難しい。人間というより動物は予想外の状況に遭遇すると情報収集は攻撃か逃避かの判断を優先すると考えられる。予想外でも想定内ということが前提ならば余裕で状況判断するだろう。

このような状況判断の一般化は大体通用するように思える。

映像や文章という情報を得るという状況は予想外の状況があるとしても想定内と言えるだろう。想定内と言えないのは緊急の情報が流されて危機が迫っていることを確認するような事態が考えられるだろう。

人間と人間の面と向かった言葉のやりとりでは、想定内ということを前提に出来るのはどのような状況と言えるだろうか。というよりも、想定外が例外的だが可能性を否定出来ないことを基本と考えるのだろう。

経験的に安心出来る相手と認識することが信用の基本とするなら、想定外を思わせないことが必要なのだろう。

女性が男性に対してお笑いの姿勢を前向きに捉えるのは、この辺りに理由があるのかもしれない。他の事例は悪用が考えられるから挙げるのはやめよう。

設備保守というものを一般的に定義することは出来ないだろう。しかし、日常の業務の範囲という暗黙の限界というもわをどのように考えるだろうか。

蛍光灯が点灯しないということを例に考えると、検知と点検、交換、修理のようなことが考えられるだろう。蛍光灯の寿命がきて点灯しないことを利用者が連絡して早急に交換することが日常的に行われていると経験的な安心ということになるかもしれない。だが、交換だけでは済まない事態も想定される。この事態をどのように考えるだろうか。

この事態を誰も考えなければ、それでよいのだろうか。よいとは誰の判断なのだろう。

そんなことを考えてしまう。