情報透過

昨日のテレビ番組で少し衝撃を受けた。その前の回は眠ってしまってみなかったが、物理の一般向けの偉い人の講義だ。

何に衝撃を受けたのかと言えば、ある公式を覚えることが普通というような見方をしていることに驚いた。覚える必要もない当たり前のことと思っていた。

記憶を辿ると、多分中学か高校の数学で扱うのだと不確かに覚えているが公式というような認識を感じなかった。

いや、これでなんとなく類推することがある。仕事の上で他の情報の組み合わせで結論づけたことを他の人は知識として受けとめていたことを思い出した。その時に違和感を感じ、なぜ知識と扱うのかがわからなかった。同じ情報に接しているから、その点では知っていることは同じはずという思いしか浮かばなかった。

つまり、着眼点が見事に違っているのだろう。そんなことを考えていると色々と導き出されてきた。

仕事では、何よりも相手との情報の正解な受け渡しが大事だと考えている。それは苦労しているところがその点だからだ。

ある有名な女性が所有する高級車の部品交換を依頼したところ、店では要求に応えられないという。実際には交換前の部品が暫定的に純正品ではない部品だったが、店の人は純正品ではない部品の在庫がないので要求に応じられないという回答だった。しかし、その女性の要件は部品の交換であり暫定的な部品である必要はないのだ。

このことをどのように考えるかは自由だが、顧客の要件を明らかに出来ないことが問題と考えるし、店に対して暫定的部品である必要性がないことを伝えないことも問題と考える立場に立つ。

逆に言えば、不十分な解釈で事足りるとする考えが問題を起こしていることを自覚していない人を問題視している。仕事の上では、だ。

ただ、昨日の番組のように着眼点が異なると、その異なる着眼点が普通の感覚だとすると色々と思いあたることは多い。

顧客の正確な情報を伝えない介在者を実力がないと捉えていたが、単に顧客の言葉を伝えたつもりでいるかもしれないということがある。まるで伝言ゲームだと思うのだが、当人にそんな考えがないのだろう。

新しい会社の会計監査を任されたとしよう。事前に何らの情報もなく取りかかるのだろうか。顧客開拓の経緯を内密にされたと捉えるならば、悪事への加担を働かせられるという不安を感じるのではないだろうか。それとも、それほど信じきっていることが出来るのだろうか。

この場合、会計というより財務と経理の実際に取り仕切る実際の実力者を自ら判断することが出来て、会社の実際の実力者の見る目を感じとれることで加担を嗅ぎとれるかもしれない。

しかし、事前情報を不自然に遮断されているなら、逃げる方法を考えた方がよいように思える。

この情報の遮断と捉えるか、脳天気に捉えるか、それは自由だろう。しかし、情報の遮断という意見に対して無言の反応なら、不安を嗅ぎとるとしてもよいと思う。

情報の伝達の手間を重い負担と感じるのかもしれない。

日常生活の上での着眼点の違いと、仕事の上での情報の透過性の違いは異なると思う。というより、真剣味が違うだろう。悪事の片棒を担がされる可能性を仕事の上ではあると考えておきたい。

さて、情報の透過性について着眼点の違いの程度としてみよう。不正確な情報と確信した時に、どのような反応が望ましいのだろうか。

摩擦が予想されても正確な情報の受け渡しに邁進することが望ましいのだろうか。摩擦を回避して問題が生じるまで時期を待つのだろうか。予想出来る対応を準備するのだろうか。封じ手のようにどこかに書き留めておくのだろうか。

どれも理由になるだろう。迷うときの方針を持つ意味を感じるかもしれない。

誰だったか、建築家が依頼を受けるときに、介在させず直接要求する人として名前を挙げていたが著名な人ばかりだった。これを伝言ゲームの恐ろしさを著名人は知っていると理解する。依頼の作法として失礼のないような配慮という解釈もあるが、そんな感覚にならないのはなぜだろう。

伝言ゲームのように代理人から仕事を依頼されたとしよう。代理人からの依頼の範囲を未確認で仕事に取りかかれることが不思議に感じることがおかしいのだろうか。権限の範囲を確認しなければ問題が起きるという経験の有無の違いだろうか。

都市伝説かもしれないが、ある火事で有名なホテルの有名人は建設途中で工事現場の写真を撮って出来上がってから指摘して建築費を値切ったということだ。

発注や検収方法で問題が起きることを経験しなくても経験に等しく知識とするなら、何かの役に立つかもしれない。

公式として知らなければ、取得済み情報から導き出される結論も知識がないことで免責と認識することをどのように捉えるか、一概には言えない。

将来のインフレ率が高いならば、名目金利が高いのが自然のはずだろう。名目金利が低いのを不自然と主張しないことに違和感を持つ。と思っていたら、似たような趣旨の書籍の広告を目にした。大体想像出来るから買わないけど、反応は乏しいと予想する。その予想が外れたら、混乱状態になりそうだ。

ここにどこか情報の透過性を遮断する動きがあるのかもしれない。情報の非対称性どころではないと思う。