枠組み認識

今朝の日経経済教室の政治参加意識は参考になる。

他人事を自分の事として意識を変える工夫を紹介していたが、その枠組みの認識は政治に関することだけではないと考えているので少々一般化して考えてみたい。

上司が部下に対して仕事を指示した時の領分には違いがあることが多いだろう。発注受注の関係でも同様だろう。

国民の政治に対して他人事という意識を丸投げ枠組みとしてみよう。その丸投げの枠組みで認識する状況は部下に依頼する場合も発注する場合もありえることだと思う。

音楽を聞く時に身近な人間の生の演奏とダウンロードした音声ファイルを聞く場合では演奏に対しての人間味のような感覚に相当の違いがあるだろう。片方は下手かもしれないが練習する姿を見ているとより一層人間を感じると思う。また、知らない音楽を沢山入手して片っ端から聞き比べをしていると演奏者のことは頭にないかもしれない。まして、計算機で作成されている曲も混じっていれば尚更だろう。

多分、ある線で区切りが明確な場合のよさと区切りを越えて感じ入るよさがあるとのだろう。

視聴率の題の回も似たような話をしている。要するに数値になることで利用範囲が拡張するという面と、数値化されない部分に意味があるという面があるということだろう。

国民と政治の関係は、株主と顧客の両方の立場を同時にさせていると考えているが、枠組みとしても両方で同じような権利と責任なのかという見方で考えてみたい。

枠組みの認識の違いは不幸の要因になると思う。しかし、認識も多様であるべきとする立場からは、他人の多様な認識を認めることから始まると考える。

前回を思い出して考えるのは、ある段階でわかったことにして進むということが理解出来てないのかもしれないということに思い至るのだ。何かの結論は何かの判断根拠があるはずと前提にする立場と何かの結論を事実化して先に進む立場の違いみたいなものだ。経験上結論に疑念を持つと大概疑念通りになるので判断根拠を求めてしまう傾向があることを認めよう。

そのような摩擦で共感を得られないことと、先に進んで失敗することと、一括りにすることは出来ないが、ここしばらくの課題、というより悩みみたいなものだ。

説明すれば理解されないことが続くと、人間どのような考えに至るのだろうか。

まるで理解に苦しむのは、素人である保険のおばちゃんに説明して簡単に理解してもらえることが、なぜ同じ業界の人間に理解されないのか、が全く見当がつかない。同じ内容で繰り返し説明して反応は繰り返し単にわからないというだけで他の反応が全くない状態が繰り返されると我慢大会を強いられている気分になる。

枠組みの認識の違いが不幸になるということなのかさえ確認出来ない。

一度戻ろう。

他人事としてしまう枠組み認識という多様な解釈を当然として、効率が悪いという問題を考えると、業務の効率という目的で組織変更することがある。

改善されると検証することが大切だが、実は難しい。業務の流れとして主流に即して組織変更することが多いと思われるが、稀な流れもあり、その対応で副作用とか効率の悪化とかがありえるのだ。しかも、複雑な流れの全体を理解しなければ、その問題を認識することも難しいということになる。

例えば、何かの賞を考えるとしよう。どのような賞かに注目する人もいれば、誰が決めるか、どんな賞品か、とか色々関心の対象は多岐にわたるだろう。些細なことまで関心を持つ人もいれば、全く関心を持たない人もいるだろう。どれが正しいという話ではないことが理解出来る。この時に、どのような手順で決めればよいのだろうか。

それこそ唯一の正解はないだろう。恐らく、多数の納得感が得られる状態を目指すことになるのだろう。

この例は内容を別にすれば、政治でも同じだと考えている。この枠組み認識こそ正しいという主張をしているわけではない。立場を明らかにしただけだ。

仮に政治利用するなら、多数の納得感を得られることを目指す政治家が成功すると考えるということになる。だから、旗幟鮮明が必ずしも歓迎されるということではないことを承知する。

今朝の経済教室は、その考えを確信するものと思われる。