同形関連

数学の体、環、群とかの用語に同形とか準同形というものがある。ここでは、それを拝借する。使う上での意味は、何かと何かの作用の仕方が似ているということだ。

技術的だったり専門的だったりするという理由で、任せっぱなしにする丸投げのようなことは、経営の問題になることがある。法律とか品質問題には、そのような匂いを感じることがある。ある程度、経営判断する為の材料を収集する必要があるように思える。

これと同形の話として、教育の問題があると思う。直接教育に携わる教師や行政に任せっぱなしにしないで、広く社会全体が当事者として考える問題だと考える。現状は、国民は教育界に任せっぱなしになっているように見える。

今回は、同形を扱うので、教育の話としては別の機会にしたいが、同形の話として教育を例にして扱う。

国民の求める教育とは、何か問題として焦点があたると、その対応に集中する、下手なサッカーのようなものに思える。下手なサッカーとは、ボールにみんなが集まってくるようなことを指す。

そんな対応より、根幹が必要なのではないだろうか。例えば、教育の評価として、生徒の二十年後の判断を基準とするというものがあってもよいと思う。

初歩的な哲学の話もまともに出来ない大学生をどのように考えるだろうか。学習の対象でないという理由で納得するのだろうか。性善説性悪説を知らなくても、秀でたものがあるなら納得するかもしれない。

フィードバックという言葉を理系大学生が知らないとしたら、どのように考えるだろうか。知らなくても、大学の授業は消化出来るかもしれない。

そのように、個々に挙げるときりがない。最低限の知識の最大公約数みたいなものを求める方法が妥当だとする考え方と、このようにきりがないから別な見方を探ろうとする考え方もあるだろう。

多様性と考え方の集約とは、相反するように見えるが、どうだろうか。これも、相反する点だけを取り上げるなら。その通りかもしれない。しかし、文脈として捉えると、関連する概念に思える。

多様な考えを前提にするから、集約の必要性があるのだろう。多様でなければ、集約の必要性は薄れるだろう。単に誰かの判断を決定事項とすればよいだけになるだろう。つまり、手続きという文脈で捉えると関連すると考えられる。

同形を見つけることが容易なら、色々と発想が広がる可能性が高まると期待出来そうだ。

簡単な把握の仕方は、状況を広い視野で眺めることだと思う。時間的空間的に状況を拡張するようなことだ。課の仕事を関連部署や部全体から見たり、一日の作業を数年の仕事として眺めるようなことだ。

逆もある。国家の話を家庭に置き換えることもあるかもしれない。騒動の原因になると非難されるから、取り扱いには注意したい。

株主総会も基準日を変更することで、総会集中日を減らすことが出来る。こんなことから、発想の柔軟性を失う理由が見つかるような気がする。習慣という慣性は発想の硬直要因であり、習慣を疑うことが豊かな感性に通じる可能性があるということだろう。

習慣とは、変更という最適値を失う恐れとしての行為を失念させるものかもしれない。単純な変更ではなく、別の変更との組み合わせでさらなる最適値を得る可能性の追求を試みない理由に使われている。