拡充方法

何かと何かの関連を拡充する方法を考えてみる。勿論、方法が確立しているわけではない。

何かを認識することが参考になると思う。表面的に認識出来るのは、輪郭が認識出来るからだろう。輪郭とは、違いという境界線ということだろう。つまり、比較可能な対象があるから、対象と対象の違いを認識することで対象を認識するということだ。

関連するとは、様々な意味がある。恐らく、その関連する方法というより、関連の種類のようなものを豊富にすることが関連の拡充の効率を高めると想像する。

だから、全く関係ないことを無理に関連させることを沢山経験するより、一つの知識が豊富な分野で様々な関連づけを経験することが効率的だと考えるのだ。

一芸は多芸に通じるということは、ここに理由があるのかもしれない。

関連づけを表面的な要素同士の組み合わせと理解すると、上の説明が不出来である証拠だろう。部分的でも体系化された概念と概念の組み合わせを指しているので、関連づけも単純にはならないことが多いと考える。

例えば、ある体系と別の体系が似ていると感じて、全く別の分野でその類似を見つけるというものは、代表的な関連づけのような気がする。

よく、ひらめきのような表現をするが、実は既に脳の中では関連づけが見つかる状態になっていて、その関連づけをさせることで瞬間的に連鎖的関連づけがなされると説明したい。その瞬間的関連づけの連鎖が心地よく感じて、ひらめきとなるのだろう。

上の話は、想像するだけだが、かなり確信している。というより、それでしか説明出来ないと考えている。

だから、成人に達しても有効だろうが、未成年のうちに、とことん何かを考える習慣は、この関連拡充の熟練度みたいなものを発達されると考えられる。考える対象はなんでも構わないと思う。

と、ここまで書いて、なんか昨年も似たようなことを書いているような記憶がある。まあ、進歩がないと考えるか、確信を高めると考えるか、解釈は様々だ。

ただ、既に解明された分野より、未解明の分野でとことん考えることは、世界の最先端に立っていると考えることも出来る。この境地は重要かもしれない。ん?これも触れたような気がする。

結論を簡単に求めると、上の効果を失うと思う。結論の検証をして、検証結果に納得しないでさらに別の結論を目指すなら、効果は期待出来ると思う。ここで重要なのは、関連拡充であり結論を求めることは二次的効果、副産物と考えたい。

仕事でも、考えることと作業することを複線化して考えるとよいと思う。任された成果を出す必要がある一方で、よりよい方法を探る意味はあるだろう。例えば、顧客に即座に返答を求められる状況を想定するなら、即答は必要で、別の複数の提案を探る意味は全て否定されるだろうか。その顧客だけへの有効な提案というより、多数の顧客への提案という考え方をするなら、意味があるのではないだろうか。

考えるから失敗と後から気づくこともある。赤面するかもしれない。でも、気づかないで成功に満足することと比べて、どちらがよいと思うか、だろう。あらゆる状況で失敗に気づくことがよいと主張しているわけではない。どちらがよいかは、その状況で判断する人に依存すると考える。だから、余計なお世話の可能性は否定出来ないのだ。

似ているところを他人から聞くことも視野を広げるように思える。これは、擬似的経験のようなものだろう。経験を積むことが色々な発達を促すなら、他人の話は聞いておきたい。

テレビ番組より、ラジオ番組に一人の人間が語る機会が多いような感じがする。何かの語りを聞くことは、様々な擬似的経験でもあるだろう。その意味では、ノンフィクションとかも似たようなものに思える。

道を歩いただけで、色々な不思議を見つけることも、関連拡充が発達しているからだろう。周囲に色々な観点を提供する人がいるなら、幸いなことかもしれない。

直接的な知識獲得より、関連拡充を発達させることに邁進する方が面白いと感じるかもしれない。感じないかもしれない。分野の違いもあるだろう。何かが違うことを見つけるという行為が関連拡充のようなものだと思う。