神の存在

宗教のことは、わからない。ここで言う神とは、その定義めいたことも合わせて考えてみる。勿論、宗教を冒涜する意図はない。

カントではないが、神を証明することは不可能だろう。なぜ、不可能と言い切れるだろうか。

カントの言う神とは、キリスト教絶対神だと思うが、キリスト教に限定する必要はないと思う。つまり、例えば何らかの意思によって世の中全てを制御出来る存在を神と考えると、宗教に依存しない定義と言えよう。

何か絶対的な存在もそうだ。他にもあるかもしれないが、表現の違いだけで、内容は似ていると思う。

ということで、意思と絶対性で表すことにする。仮定の定義は、意思のある絶対性を感じさせる存在を神としよう。

となると、例えば、意思を感じさせなければ、絶対的存在でも神ではないということになる。人類が不可能な理由を神の存在に求めるということは、どのように考えるだろうか。

現在は不可能でも、努力によって打開出来るということを否定することにならないだろうか。実は、この一点で否定したい欲求がある。この欲求を隠す意図はないが、顕わにする必要もないと考えている。

ただし、逆に人類がほとんどのことが制御可能と認識することも違うと考えているので、その点では存在を前提とする立場の人たちの謙虚さを見習いたいと思う。

では、感じるとは、どのようなことと言えるだろうか。先の定義によれば、感じれば対象は不問ということになるだろう。目の前のゴミに感じるとするなら、という仮定が適切とは思えないが、不問という意味は許容ということでもあるだろう。ただし、感じていながら、ゴミ箱に捨てる行為は辻褄が合わないと考えられるだろう。

いや、抽象的な定義よりも、具体的に感じる状況で感じることの説明のようなことになるのではないだろうか。想像するに、宇宙から地球を眺めるとしたらその感動こそ神を感じさせる心情のようなものではないだろうか。

何かの衝撃のような感動こそ神を感じるような気持ちに思えるのだが、どうだろうか。芸術的なものに感じるかもしれない。もしかしたら、スポーツとか、他人を救出するような行動に撃たれるかもしれない。そのような瞬間的な感動に神を感じる心情としてしまうことに違和感があるかもしれない。

これらのような感動を想像して、確かに美しさとか、素直な気持ちになるとか、そんな心情を想像して、もしかしたら神を感じるような気持ちと似ているのではないか、と考えてしまうのだ。

というのは、真理に到達するようなことに、なぜか神の存在を感じるような気持ちになった経験があるからなのだ。なぜ、そんな気持ちになったのか、それを説明しようとすると、今回のような支離滅裂な説明になってしまう。

恐らく、神という強烈な言葉が邪魔をしているのだろう。より適切な言葉で表現しなければ、気持ちも、それに至る理由も素直な説明にならないように思える。

別な言葉を探す旅にしよう。ただし、無意識に行われる旅になる。