認知症予防

認知症の予防の紹介があった。これはこれで根拠はあるのだろう。しかし、食事の偏食のような感じを受けた。

認知症は原因が明確なものとは別に自然に進むもののようなものを対象に想像する。ここで想像という言葉を使うのは、根拠が薄弱だからだ。根拠が薄いのに強く確信することもある。まず、その強く確信することを考えてみたい。

人間の脳を考える時に主流というか、現状で正統的な見方はシナプスとか神経系を考えるだろう。また、脳の活発とみなす計測方法は血流に限るようなものだろう。ここに直結していないことを見つめる必要と様々な余地があると考えられる。

神経系の反応速度と血流の変化の速度は桁違いだろう。また、血流は地図で言えば概略図みたいなもので、機能する部分として概略検知という制約を受ける。

だから、本来活発な箇所の検知を逃しているかもしれないのだ。その可能性を念頭に置いておく。直ちに、何かの予想につながる訳ではない。

人間の意識と無意識の境界も定かではない。というより、人間と人間以外の動物を比較すると大脳新皮質になるだろう。この部分に意識の要素があると睨んでいる。

だから、意識というより、動物同様の範囲で考えると頭脳の体操より、身体の体操が効果があると思う。特に、手を使う細やかな体操は抜群と考える。

また、活発ではなくても、脳の血流を円滑にする意味で、身体運動は脳にもよいと思う。血液が円滑に循環することが目的になるようなものだ。だから、心肺にある程度負荷のかかる運動が適切だろう。ただし、他の身体の具合によっては不適切になるかもしれない。

要するに、脳の大部分は感覚機能と身体と関連するから、それらを適度に使うことで適度に維持出来るという考え方だ。会話も必要なのだ。

手を使うのは、習字や絵画、折り紙といったものだろう。ん?何もしていないことに気づいた!これは驚いた。それはそれとしよう。

このように考えると日常生活を適度に過ごすことが結果的に認知症の予防になると思う。特定の運動にだけ特化すると、その部分の維持は出来ても他の部分の維持が不十分になるかもしれないことを懸念する。

そして、人間固有ではないだろうが、意識の部分では短期的記憶を中心に新しいことに触れること、関心を広げて新事実に気づくことのようなことが、意識の働きとして短絡化を防止すると思う。

認識する範囲で、より別の認識への意欲がこの場合鍵となる。別の認識に興味がなければ、意識する範囲では概念の短絡化が行われてしまうと考えるからだ。

それを防止する方法も、発達させる方法も結局同じことで、関連という関心で左右されるという考え方だ。

関心の対象はなんでもよいのだが、死んでしまうものとか破壊されるものは即座に代替可能なもの以外は途絶という副作用があるかもしれない。

例えば、植物は枯れるが、同じ種類でも別の植物を植えることで継続可能だろう。そこに固有な植物という意味を持つと、途端に話が違ってくる。

だから、その種の副作用も考慮して周囲は接すればよいのではないだろうか。

笑い話を考えて、他人に紹介するものは、聞いた他人も楽しめるというものだろう。絵画も同様だろう。だから、芸術に親しむことや普段の会話は、年齢に関係なく必要なのだろう。手や口に関係する脳の部分が大きいことも勿論あるが、他人への影響という観点で相互作用的効果への期待が強い。

逆に認知症に進む方法は、循環器系によくない食事ばかりの摂取と運動不足がてきめんだろう。そして、関心を広げず何事も決めつける習慣を身につけることだろう。

習慣を変えることは難しいから、若い時分から適切な習慣を身につけることが必要かもしれない。習慣を変える習慣も意味があるかもしれない。この習慣を変えることとは、気まぐれのことなのかもしれないことに今気がついた。

気まぐれは必要なのかもしれない。気まぐれがよくわからない。気まぐればかりだからわからないのかもしれない。おやおや。