対立

マーシャルのkは、わからない。量的緩和策以前から傾向があると思っていて、その納得出来る理由が見いだせない。だから、症状を原理みたいな認識をして量的緩和策を正当化する見方を新鮮に感じる。思わず頷いてしまいそうな説得力を感じた。しかし、性質なのだろうか。わからない。

今のところ、複雑化して単位当たり付加価値に関連する取引量が多いと考えている。しかし、そのような統計を目にしたことはない。

さて、今朝の新聞で超有力大学の次期トップの話が掲載されていた。読んだ範囲では期待充分といった感じになった。特に、学生が納得することを重視することと、努力について予断を持たない姿勢に真摯さを感じた。あがくことを予想していることが窺えるのだ。予断を持つと見失うことが多い。それも理解しているのだと思う。恐らく、研究姿勢のままの態度なのだろう。だから、真摯に感じるのかもしれない。

そして、簡単な経緯の紹介も載っていた。それだけで何かを判断することは出来ない。しかし、対立することを一般的に考えることは出来るだろう。武力や暴力で解決しない前提が、直ちに構図を決めることにはならないだろう。前提は単に前提でしかない。

対立というものをどのように考えるか。何かの決定は決まっているが、その決定の選択肢が複数あるということとしてみよう。

この何かを決定するという構図は、発達や進化の選択と似ていると感じているが、今回は切り離して考える。

決定に対して、その正負の影響は様々だ。ゲーム理論的に考えると複数の選択肢に応じた正負の値を設定してその正負の合計値で最適解みたいな解決になるだろう。

この解決方法が採用出来る条件はあるだろうか。それは、全情報が明らかになり、その後変化しないことが最低限必要だろう。多くの決定では、時間とともに変化する。多いからという理由で不採用にすることも出来ないだろう。だから、全情報が静的に明らかになるならば、ゲーム理論的解決方法を候補に出来るだろう。

では、動的変化にはどのようなものがあるだろうか。それは、正負の値が変化することに尽きるのだろうか。それは、単に思いつかないこととして、とりあえず正負の値に限定しておこう。

もう一つの全情報はどうだろうか。これはなかなか成り立ちにくい。言葉を換えれば完全情報ということになる。現実の世界では不完全情報で判断することがほとんどだろう。ただし、理論的には導けると言える。

動的変化を前提にした完全情報というものが、なんだか矛盾するようなものに思えるが、とりあえず成立するとするならば、決定時期と動的変化を整合的に扱う必要がある。さて、どのような中立概念があれば整合性を見いだせるだろうか。むしろ、中立概念の幻想を証明することが出来る感じになる。これは放置しよう。

とすると、動的変化のある不完全情報での決定ということになるのだろう。

ここで様々に考えることは出来るだろうが、決定的に必要なことは、動的要因と情報の不完全性要因、そして決定的負値になるのだろう。

動的要因とは、外部環境とか個別になるかもしれないが、抽象的に考えると、時間的変化と関係者間の影響というものに出来るだろう。

情報の不完全性は難しい。とりあえず、決定関与者の判断の範囲ということにしてみよう。難しい理由はきりがないことだからだ。

関係者間の影響とは、決定関与者に対する働きかけみたいなものになるのだろう。典型例は、デモとかロビー活動だろう。いわゆる圧力の類になると言える。

これらを前にして、決定方法を考え出せるとする根拠はあるだろうか。そうなのだ。出来ることは、決定方法の幾つかに対して、どの点で何がよくて何が悪いか、みたいな認識を共有することだろう。

先に前提の話をした。対立する場合、対立のまま平行線の議論になることは、よく聞く話だろう。それは、単に武力や暴力の使用がないという状況を前提としただけのことで、対立の放置みたいなことは何ら変わらないのだ。

話を戻すと、対立のまま放置しないことを明らかにすることは、何らかの歩み寄りなのだろう。何かの認識を共有しなければ、歩み寄りは出来ないと考える。逆に、何かの認識を共有しないで歩み寄りが出来るのだろうか。

これを議論のための議論として排除することもあるかもしれない。しかし、議論の方法論を作ることは、もしかしたら平和の一歩かもしれないのだ。

整理しよう。

対立には様々なものがあるが、その解決方法も様々だ。決定内容の最適値も、決定方法の最適値も、何か客観的に根拠とすることは難しい。しかし、対立を放置しないこととして、何かの認識を共有することが必要ということは導けるだろう。

西洋流とは言わないが、現在の国際的な場での作法はある程度確立していると言えるだろう。しかし、国際的な場として必要なのは、その作法に準ずる者だけで構成されるとは限らない。そこに、より作法の敷居を低くした最低限のルールを導入する余地があると考えられる。そこに気づくのは、平和を旨とする日本の固有な歴史に基づくのではないだろうか。

なんとなく暗黙の共有を自然と持っているのは、日本人は当たり前過ぎて認識していないのではないだろうか。なんとなく平和に解決している理由を、解決済みとして解明しないのは、もったいなさすぎだと思う。ここに日本人以外の関与を必要とする状況と比較文明、比較歴史といった比較学問の要請があるのだろう。