点滴

ノーベル経済学賞の解説が載っていた。分野がこれほど多岐に渡る人とは知らなかった。それにしても、ある分野を後の楽しみに残したという言には笑ってしまった。上品なジョークには好感を持つ。

点滴岩をも穿つという言葉は、一般には長く努力すると成果をあげることが出来ると解釈されるだろう。

有名な言葉について、出典が明らかで、その意味が説明されていても、独自の解釈はそれなりの価値を生むと考えている。上の言葉について、柔剛の対比を含めることは新鮮に感じた。

なんとかは細部に宿る、なんとかは真理だったか有名な言葉は建築の分野で使ったものだが、今では分野に関わらず使われている。これも独自解釈で使われていると思う。

独自解釈は、その解釈する人間の持つ体系だった思考に基づくものと考える。つまり、出典尊重は表現が一見心地よいが実態は言葉を借りているだけで、独自解釈は一見原典をないがしろにしているようだが自分なりに消化して使っているという考え方だ。

それは、消化するだけの理解を深める過程があることと、他の概念と関連させるという知識の広がりは教養が高いことを間接的に証明していると考える。

だから、出典と異なる解釈を最初から排除するのは、実にもったいない話なのだ。その人間を尊重して話を聞くと聞いた人間を豊かにすると思う。
たというよりも、自然現象を不思議に感じることと通じるものがあると思う。一見不思議でも何でもないものを不思議に感じるとは、どのようなものだろうか。まずは、常識的解釈で通り過ぎることではないことは確かだろう。説明出来ないものを見つけたのかもしれない。何か漠然と違和感を感じたのかもしれない。これが何かのきっかけになるかもしれないのだ。そのような機会を自ら手放すのは、もったいないと思う。

スポーツ選手の語ったものも、言葉としては洗練されていないかもしれないが、そこに何かがあると深く消化しようとすると、見つかることもある。見つからないことも、もちろんある。

努力には色々あるが、平常の努力以外に最先端の競争を感じる努力もある。水泳選手が体毛を剃ることは後者の代表だろう。微妙な差に大きな違いがあるようなことは、なかなか経験出来ないものだろう。

バーゲンで頑張るのは、もしかしたら近いのかもしれない。

これで思い出した。いつか書こうとして忘れていた。

女性の地位を高めようとするなら、まずは母親の仕事、料理とか掃除とか、育児、家計のやりくり、その他の一切が大変で高度な仕事であることを理解すべきだろう。母親を直接敬うより仕事を実感することが効果があると思う。母親を尊敬出来れば、世の中の女性を見る目も変わると思う。ここでの女性とは、いわゆるおばちゃんだ。職業に就かないおばちゃんを尊敬する目で見れば、風景が違ってくると思う。自分の母親への見方には固有なものがあるだろうが、抽象的なおばちゃんには抽象的な見方になると思う。

仕事の世界でしか評価軸がないと、その仕事の分野での実力がある人しか認めようとしない傾向があると思う。それが、ここでの問題なのだ。

多様な見方が素直に出来ると、自分の仕事の領域以外でも認めることが出来るだろう。そのような意味での問題なのだ。

ここでは女性を対象にしたが、実は多様性の問題ということが理解出来る。だから、他の多様性の問題、例えば、外国人や世代の違いといったものが挙げられる。

おばちゃんとしたが、おばちゃんでなくても構わないのだ。尊重して理解しようとする対象はおばちゃんに限定する必要はない。だから、おばちゃんは抽象的な意味で考えればよいと思う。

だが、おばちゃんという言葉を使うのは問題かもしれない。この言葉を聞く女性がどのように感じるか次第だろう。幼い子どもが若い他人の母親をおばちゃんと呼んでも、恐らく平気だろう。しかし、それなりの年齢の女性を前に使うと、自分がおばちゃんと呼ばれる分類に該当するかもしれないと恐れていると思う。恐れていないかもしれない。

いや、この話題はやめよう。細かく話さなくても通じるだろう。

まずは母親の仕事を尊重することから始まるということにしておこう。