若気

今日も飲んでいる。過激になるかもしれない。それはそれで楽しみだ。ん?

ヤマトのマレーシアへのノウハウ提供は、これこそ知識産業と思わせる。高尚な知識ばかりが知識ではない。地味だが、確実に生産性を向上させる知識経験の継承は大切だ。

これで思うのは、都心の交差点だ。即効性の解消法はないかもしれないが、円滑な交差点は社会的生産性を向上させるだろう。例えば、環七と交わる国道は象徴的になるだろう。国道十七号線との交差点は排気ガスで有名だが、交通量もそれなりに多い。というより、実は脇道が危ない。

収支報告書の件は、その前の危険な郵便物で疑念の可能性を考えてしまう。政治的に何か強い政策を進める計画があって、それの妨害行為の可能性だ。もし、そのようなことがあれば、政策の中身に関わらず与野党一致して戦うべきだろう。勿論、たった一つの出来事で短絡的に結合出来るわけではない。しかし、姑息な手段に対しては、議論を守る立場の人間は戦う必要を感じて欲しいものだ。たとえ、それが政策的には異なるものであっても、方法を冒涜することに反対しなければならないだろう。

初心の話は後回しだ。飲んで話したらどのようになるかわからない。

羅針盤のドイツは、正直その通りだと思う。市場の要請とのせめぎ合いは、なんとなくわかる。どの立場に立つか、それ次第で賛否が異なるだろう。本来ならあっちだが、みんなに負けてこっちみたいになると思う。

思考回路についてはすぐには理解出来なかった。言葉通りなら、思考の筋道が似ていることを指すだろうが、恐らく独特な表現に過ぎないと思う。良識的な書き手とか感性が近いと感じるとか、そのような表現なら見逃していたが、思考回路という表現は見逃せない。

推測すると普段から過激な発言を耳にしていて、それとの違いを思考回路という表現にしたのだと思う。そこまで汲み取って理解してくれる人がいると信じているからなのか、適切な表現を意見する耳の痛い意見をする人がいないからなのか、その違いはわからない。

わからないが、その辺りに課題があると思う。

本来的主権者と大衆迎合は宿題と感じる。本筋かもしれない。

さて、若気の至りでエレベーターを止めた話は、熱いハートと冷静な頭脳の片方がない状態だろう。冷静な頭脳というより、そのような道具が出来ると違った風景が見えてくると思う。道具の有無は補えばよいだけだが、熱い心情は補う手段はないだろう。

米国元副大統領の話から、自分なりに消化している知識と感じる。引き出しを用意する程度の知識ではないと思う。そこから考えるのは、そのような人物が育つ環境を羨ましく感じるとともに日本の政治の課題と思った。

どれだけの政治家が自分なりの言葉で語れるのだろうか。それが感じらんないのだ。

今、静かな大衆、つまり政治的発言を発しない大多数の有権者が感じる政治的課題は何だと考えているのだろうか。それが理解出来ていないから、ありきたりの言葉にしか出来ないのではないだろうか。家電製品で他社製品もの違いにしか思い及ばないから、少しの違いを製品にしたようなもので客を呼び込もうとしているような感じがしてしょうがない。

そんなていたらくにしたのも我々有権者なのだ。有権者が変わらなければ変わらないだろう。つまり、罪を作った罰を受ける構図とも言える。しかし、罪を作らないのに罰を受ける構図が明確なら、どうだろうか。これは顕在化していないだけに厄介だ。というより、気づいている人間は罪作りに加担しているとも言える。気づかないことにする方が罪の意識がなくて済むかもしれない。

さて、本来ならどのような風景が適切なのだろうか。本来と異なるなら、本来の風景にするにはどうすればよいのだろうか。

多分、育成システムが機能していないことが原因で、原因を解消するには育成システムが機能しなくてはならなくて、その必要性を感じる人間は幾人もいたのに、解消への実現が果たされていないのだろう。さて、必要性を感じた人間とは、どのような人なのだろうか。

それを明確に意識出来ていないのが静かな人たちなのではないだろうか。明確に意識出来ているなら、言葉として発しているだろう。違うのだろうか。

眠くなったが、多分それほどずっこけていないと思う。