書評

今日の書評は、色々満載だ。

まず、書評欄なのか分類が怪しいが、宇沢先生の日本に帰る前は論文を苦もなく書けるのに日本に帰ってきて論文が書けなくなったという話に、何となくわかった。

今日も飲んでいるから、割り引きが必要だ。

あちらでは、英語を使う。日本では、日本語を使うのだ。それは当たり前だが、日本語は論理的言語説明の対極のような存在なのだ。克服するのは、意識出来る市場原理と無意識な日本語だったのではないだろうか。

日本語に使われると本来の実力が出せないが、日本語を使えると実力以上の発揮が出来るのではないだろうか。先生は、使いきれなかったのではないだろうか。

脳の話があって、人間が動物と違うという本の書評を脳の科学者がしていた。動物と同じ部分がかなりあるという立場からは反論したいが、それはこの場ではふさわしくない。カントでも先験的という言葉があって、書評でも人間が生まれもった社会性動物ということだが、そこは赤ちゃんからの共通する社会性体験と考えている。あまりにも当たり前に感じるくらい共通するのだろう。

その次が、失礼をかっこ付きで三連発した評に思わず笑ってしまった。しかし、入学式の学長の話は真剣に考えたい。かなり効果が期待出来ると思えるからだ。

あと、何かあったけど、高木先生が出てきて忘れてしまった。類体論グラフ理論の組み合わせが、場の物理には必要なような気がしている。全くの勘だが、空間を扱うような数学という意味でのベクトルとか幾何の類より、決定的に必要なのは群と組み合わせの理論だと思う。それが、類体論グラフ理論だと思うのだ。それで遊んで、ではなく研究して何かが掴まえるのではないだろうか。

あ、余分な中性子の話が紹介されていたが、原子番号で眺めると陽子数が中間くらいが一番質量が少ないことと半減期の時間が何かべき乗分布の関係があるのではないだろうか。それを先に確認してから取り組む話のように思える。

しかし、高木先生には驚いた。何の本だか忘れてしまったくらい驚いた。売れるのだろうか。それを心配しても仕方がない。

あ、何か抽象的なことがどうのこうのみたいなことがあったけど、それがわからなかったことだけしか覚えていない。

昨日、レッドツェッペリンのテレビ番組を見て睡眠時間が少なかったからだろう。眠い。