英才教育

フィギュアスケート金メダリストの学校時代を語ったコラムで考えさせられる。書いてある内容というより、記憶していることは、練習以外は普通の生徒で、特段の優遇があったわけではないということだ。

フィギュアスケートで世界的に活躍する選手が、どのように教育を受けてきたかはわからないが、かなり小さい頃から練習していたのではないか、という推測はある。成人に達してから活躍する選手もいるかもしれないが、恐らく稀だろう。

また、選手として活躍して、コーチでも活躍する人が、自分の子どもには選手にさせないつもりでいたのに、本人が教わりたいということで一つだけ教えたら、それだけを熱心に練習したらしい。つまり、コーチとして他の選手には色々教えたのに自分の子どもには少ししか教えていないという事例なのだが、それでもその子どもは立派に活躍していることを、どのように考えればよいのだろうか。

これらから考えるのは、今のところ、子どもである本人が自主的に行うことは効果があり、周囲の特別な視線は妨害要素の可能性が高く、多様な人間の一人でしかない存在と自身を捉えると、最大効果になるような気がしている。幼い頃から馴染むことが必要そうな、フィギュアスケートでは、そのような環境が必要なのではないだろうか。

妨害要素と考えるのは、親の欲目であり、本人の特権意識だろう。親の欲目それ自体は、存在しても不思議ではないが、本人が義務的に感じると効果を失わせると思う。また、本人の特権意識は簡単に満足してしまうことが考えられる。成績がよければ、それで満足してしまい、それ以上の努力の必要性を感じないということが考えられるのだ。

だから、県大会優勝で満足するような環境はよくない可能性があるということなのだ。努力していることを称賛しても、結果を称賛することには注意が必要だろう。

英才教育については、これらの配慮を前提にするなら、社会的には必要性を失うことはないと考える。環境整備を積極的に主張しているわけではない。教育にはそれに適した配慮を主張しているということだ。

音楽や美術といった芸術の類も同じだと思う。その方面の教育環境の配慮があっても、個人としての特別な配慮は不必要だと思う。

そんなこんなが普通とされると、多様な人間が当然と認識するのではないだろうか。

社会的公共性を一定範囲外に逸脱する可能性を育んでしまうような特権意識は、社会的に歓迎すべきことではないだろう。それはそれで普通の教育として必要なことだと思う。行儀のよさを求める教育の方法もあるかもしれないが、他人への迷惑や公共性を当然のように身につける方法の方が効率的で意識を他に振り向けやすいと思うのだ。

個人の最大発揮の総量を追求するような視点と言えるかもしれない。各人の得意とする分野で活躍すれば、それが社会的に最大恩恵を享受するという考え方のようなものだ。ただし、最低限の遵守を前提とするということでしか条件がないとも考える。

これに報酬の考え方を導入すると、成人に達した世界の話として色々考えることになると思う。しかし、報酬はある意味根源的なものだから、難しい。恐らく、唯一の解という追求ではないだろう。とりあえず、今回の範囲外の話としよう。

スポーツでも芸術でも、飛び抜けて発揮する子どもがいると、その子どもに対して特別な教育をしたくなることは理解出来る。それを否定することは難しい。しかし、子ども本人の意思を無視することも出来ないだろう。詐欺ではないが、巧妙に誘導することくらいが限度ではないだろうか。

再度詐欺ではないことを断るが、スポーツ分野で活躍するマンガやドキュメンタリーが刺激になることは考えられる。サッカーや野球のマンガがきっかけになった選手はいると思う。オリンピックで活躍する選手を紹介するニュースも同じような効果がありそうだ。

囲碁が一頃小学生の間で流行したのも、マンガの効果だ。確実に言えるマンガを思い出す。それは、ロボットだ。今活躍するロボット関係の研究者で子どもの頃に刺激を受けた人は多いだろう。

それらが自主的な努力のきっかけになることから、様々なマンガを考えたくなるかもしれないが、それは目的にする話ではないように思える。不自然に作られると、というより安易なマンガでは、感動から遠いと思う。

いやいや、現役で活躍する選手なり芸術家が、社会的に敬意を払われることが環境整備の一つなのではないだろうか。ロボットも、仮想の世界ではなく、現実に活躍していると、それ自体が子どもに対する何らかの主張になっていると思う。

戦前なら、戦艦大和はそのような存在だったのではないだろうか。いや、機密扱いで一般には知られていなかったような記憶がある。

まあ、とにかく子どもに対してよい影響を与えることが下手な教育より効果があるかもしれないと考えるなら、今目の前のことに真面目に取り組むことこそ教育なのではないだろうか。

お笑い芸人も、影でどれだけの努力をしているか、どれだけ知っているのだろうか。