高倉健

今週、月次データの発表のラッシュになるようだ。これも判断材料になるだろう。足元で有力なのはDIだと思うが、あまり関心がないから感度に自信はない。

短期的視点としても、決定の対象時期は来年なのだ。判断は短期的視点が適切と言いきれるだろうか。

今朝の日経新聞の経済教室も参考になると思う。国民が重視して欲しいのは、最後の部分だろう。税と社会保障も同じ位置づけで、かなり一体で取り組む必要を感じる。

しかし、この書きっぷりに感心する。なかなか真似出来ないと思う。どこがかはちょっと言いにくい。

ということで、今週の月次データで上向きが確認出来るだろうから、先延ばし反対を掲げて総選挙に臨みたくなるのではないだろうか。

しかし、ネットのニュースで民主党の公約を見たが、集団的な安全保障の件には驚いた。

安全保障分野で現状以外を認めない立場ではない。別の考え方を受 け入れる手順の問題なのだ。政権を担う意味での問題意識なのだ。

会社の経営でも、以前の経営者と交代するとしても、手順を踏むだろう。例えば、他社との提携を中止するとして、他社の意向や中止の条件を確認して、不履行行為を回避することは基本的なことではないだろうか。

現在、外交と安全保障分野で協調して動いていることを、どのように考えているのだろうか。協調する外国は、信用しているはずだが、政権交代でそれらを粗末にされると思うだろう。つまり、視野が国際的視野ではなく、選挙の有権者でしかないことを表しているのではないだろうか。

こうなると、徳島で引退しようとする人を引っ張り出してこなければならないのではないだろうか。その辺りの情報に疎いから、的確ではないかもしれない。

このような不安定は、様々な余地を与えることになるのだ。

なんか、どれだけ反省してないか、それがよくわかって、脱力感しか感じられない。結局、自民党が失敗することを待っているだけの政党で、二度と渡さないように与党に頑張って欲しいと思われるだけになっているようだ。

さて、昨日と今日で、亡くなった高倉健の特集番組を見た。

色々あるが、すごいという言葉では追いつかなくて、なんというか、覚悟を感じさせることがあった。

それは、本人不在で数日すら中断させることをしないというものだ。色々な解釈があると思う。でも、本人の弁の通り、プロ意識からくるものだろう。

何かに徹底するからの凄まじさということでしか受けとめることが出来ないほど、分析対象としてはいけない聖域のような存在に感じてしまう。いや、多分適切ではない。分析出来るほどの分析能力に自信が持てないということではないだろうか。

まだまだ沢山あるが、決定的に違うと思ったのは、どのように他人に見られているか、というものをかなり重視しているということだ。その対極のようなものだから、その感覚を理解しようという気持ちにはならないが、それでもその徹底の凄まじさには、理解しようという気持ちにならざるをえないほどなのだ。

手足の動作を見られたいというようなものではない。多分、その存在から感じられるものに気を配っているように思った。どんな状況で、どんな部分に、どんな背景を感じて、どんな言葉、或いは、動作にするか、みたいなものだ。瞬時の判断だから、計算が間に合うはずがない。だから、計算ではなく、板についた思考が素で表現されるということだと思う。ということは、どれだけ深く普段から考えているか、がわかるということだ。

恐らく、そこまでの考えで普段を過ごしているのではないと思う。何かの徹底的な凄まじさ、鬼気迫る何かが突き動かしているような感じだ。それが何かは、わからない。

というより、これだけ徹底して脳内概念が局所的強化されるのは、その強化が強化自体の要因になるようなものでしか、説明がしにくいからだ。文学的には何かの言葉になるかもしれないが、多分それは遊離したものだと思う。現実に根拠を持つならば、経験で説明出来ることになるはずだからだ。その経験とは何かが決定的に重要なのだ。

想像すると、思いつめたのではないだろうか。仕事から離れた時の習性が思いつめることということだ。思いつめる対象は脳内にしか存在しないから、習性は常習を徹底することが容易になるのだ。つまり、強化が自然と徹底されるということだ。

この解釈は、かなり納得する。思いつめる何かはわからないが。自然な強化ほど強烈な効果はないことも、これで説明出来るように思える。

逆に言えば、強化方向が不適切であれば、危険性があるということでもある。

映画より、映画の裏舞台に興味がわく。素人では、映画からこのようなことを感じることが難しいと思える。いや、感じるから人気があると考えると、少数派ということになるのだろう。