教養

教養とは、なんだろうか?豊富な知識だろうか?実は、それなりに考えてはいる。単に豊富な概念とはせずに、社会的に共有する分野であることが必要と考える。つまり、教養とは社会的に共有する分野での発達した概念となる。従って、他人とは分野を共有してもその概念の発達には個人差がありえる。発達の出発点の概念が同じでも発達の仕方は異なる可能性が大きいからだ。そのため、信念に達するまで深く掘り下げてしまい、他人の浅はかさに上手く疎通出来ないこともある。教養ある人は、相手の教養の程度を推し量る力が必要な所以だ。また、相手を推し量る場合には単語の羅列という知識ではなくその人なりの文脈の有無という基準軸になるだろう。その有無を測るには文脈を理解する力が必要となる。分野は特定できるだろうか?相手が外国人の場合、自国の歴史を語れるだろうか?歴史上の頂点の存在を語れるだろうか?相手国のそれが理解できるだろうか?知識の豊富さに拘る必要はなく文脈として自分の認識で構わないはずだ。それなら、仕事の上ではどうだろうか?自分なりに語れるだろうか?つまり、共有分野はその語る場の参加者におそらく左右されるだろう。