バベルの塔

経済学は社会科学の女王といわれている。貨幣や材・サービス市場で数量で捉えやすいからと考えている。だが、百年程前の時点で人類が月に行くのと経済の諸問題の解決を比較した場合、恐らく経済学者は経済の諸問題の方が容易だと考えたのではないだろうか。それは、現代の経済学者の現実の経済に対する自説で解決できるとする姿勢からも容易に察せられる。実は、バベルの塔を建てているのではないかと思う。実際の経済に対する解決の困難さの確認の程度のことを指してバベルの塔の建設に擬せられると感じるからだ。恐らく、自説の理論は一定の条件下では成り立つのだろう。まるで、木の葉の行方の予想の解決に重力を自説とするが如く。また、風を自説として予想と実際の着地の差を誤差と扱い正当化する如く。皮肉を主張している訳ではない。バベルの塔の建設の認識のもと、実際の経済に対する目的に応じて限界を知る必要性を主張している。中央銀行や政府を全能とせず、限界の設定を共有することで処方も確実性を増すと思う。そうでなければ隠れ蓑の陰謀を疑う。隠れ蓑陰謀は別の機会に述べる。一度戻ろう。経済学は日々進歩している。だが、あくまで理論としてであり、実際への適用には限界がある。そのため恣意的介入への限界の共有は意義がある。ここで気がついた。限界には二通りあるのかもしれない。技術的限界と善悪的限界だ。念頭にあったのは技術的限界だったが、善悪的限界は別名政治的限界で裁量の扱いに気がついた。例えば、普通はありえないとされるインフレと失業率が共に異常であるスタグフレーションが激化した場合、一般的に処方は相反する。予め設計できるだろうか?といったことを共有することが有意義だと思う。現実に直面する状況でないからこそ、冷静に議論できる。