貨幣

日本では、紙幣に対して硬貨を貨幣とするようだが、経済学では預金とか現金とか広く考えている。単位を特定すると通貨と称するようだ。が、ここでは人間の思考が作り出した経済手段と考え、経済学での貨幣と同義となる。しかし、大いに異なるのは批判的に考えてみようとする点だ。貨幣の成り立ちから考えれば、経済手段として別手段の可能性を探ることやインフレの意味合いではなく疑念を求めることは意味がありそうだ。恐らく、多数の人間の多数の経済行為では、疑う余地のない視点だろう。まず、出発点として人間の思考結果であることを認識すべきだ。自然界に存在する自然物ではないという意味において。従って、別手段の可能性も疑念も排除に根拠を見いだすのは困難だろう。別手段は、使い勝手や信頼性その他で広く支持を得られればという条件を満たせば可能性は大いにある。ただ、残念ながら容易に浮かばない。むしろ、経済行為自体の変更の方がありえるのではないか?数秒毎に吸い込む空気は、経済行為とはいえまい。つまり、経済行為の対象が空気のようになってしまえば無用になりうる。もう一つの貨幣への疑念はどうだろうか?貨幣を入手する時点で次にほぼ同じ価値と交換できると信認するから安心して入手するという認識について疑う。もう少し突っ込むと、相手も同様に信認し、さらにその先も次々に信認し、あまねく信認が浸透している状況が前提となる。誰かの高尚な主張などの信用と比較することを考えてみて欲しい。それ程の威力を驚異と感じるのか当然と感じるのか。一度戻ろう。幼児や人間以外の動物を例にしなくても、信認しなければ直ちに経済行為への参加が閉じられるというだけの意味でしかないことも貨幣への信認に恣意的でない自然な威力を感じる。つまりは、高尚な主張は恣意的で不自然と感じるということかな?