数学

数学ほど人間の疑いから縁遠い存在もない。自然界の原理と考える人もいるようだが、ここでは人間の生み出した道具の立場をとる。自明とされる公理は、人間の認識が起源であり脳内概念はその認識からの遊離が困難だと考える。人間の認識から遊離するならば、より純粋に脳内概念で閉じることが可能だ。ここでいう人間の認識とは、例えば円の場合、数学としては点と距離の概念が必要になるが、目にした丸い形状が最初の認識であり点や距離という抽象概念は学習という関連する脳内概念の構築を要する。仮にその人間の誕生以来丸い形状を目にしなければ、定義通りに円を脳内概念として発生させ形状という認識から遊離する可能性はある。これから考えるに、理屈では単純なのに数学として発展を妨げるのは、人間の素の認識の限界が理由になると思う。例えば、事象を逐次に追跡する方法なら発展しているが、複雑の事象が並行する場合の追跡方法は計算機に委ねられ数学としての発展とは言い難い。人間の認識では複数並行事象は容易に追跡できない或いはできるという共通認識にないからだ。行列を複数並行事象とみなせるか?また、人間の認識から解放された新たな数学の構築はあってもいいのではないだろうか?計算機が発展しているからこそ、数学の可能性を追求する意味があると思う。どうしても、過去の蓄積を利用して発展させようと努力しがちだ。経験上の成功が説得力を持つ。過去の努力の偉大さに謙虚になることも理解できる。しかし、人間の作り出したものについては、土台から批判する姿勢は

大事だろう。普通は疑いもしないものに対してでさえ疑う意味に気づくなら、尚更様々なものに疑ってみる価値は当然評価できるだろう。迂回生産的なこと、ひたすら木を切るより一旦ノコギリの刃を研いでからにした方が効率が良いことに何かしら共通点を感じるのである。