二つの明確の間の微妙

二つの明確な認識の間でどちらにも直感的には区別されない事象を少し考えてみた。具体例として、恋愛対象の気持ち、原発事故への安全性、野生動物の遭遇相手が捕食対象かその逆か、でみてみる。恋愛対象の異性が自分に対して無関心であるか恋愛の関心を持つかははたして明確か異論ありそうだ。しかし、砕けてもはっきりさせたいと思う気持ちはあるだろう。安全性は安全と思いたいけど不安というのは似てる。野生動物の場合は生死に関わるから直感的に判断しそうだ。三例とも無理がありそうだ。しかし、微妙のまま放置するわけにはいきそうもない例が浮かばない。その趣旨で進めよう。その場合、関連情報の収集と時間的猶予は兼ね合いになりそうだ。仮定をどちらにおくかも確定できない。しかし、ここでは問わない。微妙のまま放置できる場合と比較すると関心を追求するか即断が行われると高い確率で予想できる。即断の頻度が高ければ明確化の強化学習がされるだろう。追求の頻度が高ければ、何の学習が強化されるだろうか。方向は多様だが、恐らく関連する概念の発達があるだろう。微妙のまま放置できる場合でも関心があれば、同様な発達がありえる。つまり、微妙のまま放置できない場合は関心の強制があるとみなせるかもしれない。即断の場合も行動後に記憶からの情報収集という手法で概念の発達がありえる。歯切れが悪い。一度戻ろう。予備知識のない初対面の相手に対してはどうだろうか。明確な認識という設定は可能だろうか。二つの明確な認識という取り組みが崩れそうだ。しかし、無関心か否か、情報収集か明確化か、関心の対象、みたいな習慣は固定化されやすいのではないだろうか。初対面時の情報での判断では強化学習されると思う。習慣の固定によって特徴的になると癖と呼ばれそうだ。さらにいえば、予備知識への習慣も強化学習されるだろう。意識して習慣を変えない限り癖への一本道だろう。