コップ半分の水

コップ半分の水は、多いだろうか、少ないだろうか。ここでの立場は、理論的には評価をもたず、事実だけを認識する、というものだ。つまり、評価軸次第で多いとも少ないとも判断する。この立場は批判できるだろうか?いや、無理やり批判するとして、どのように批判できるだろうか?一つは、具体的個別状況において、主張している場合は、その暗黙の状況からの逃避と解釈されることだろう。それ以外に批判できるだろうか?ちょっと、思いつかない。いや、それで何を主張したいのかわからない、というのもあるだろう。まさしく、先を急いでいるようなことになっている。いいたいことは、評価する立場に立つ視点と、その立場を眺める視点とがあるとする点だ。単に客観的視点とするわけではない。言い換えれば、枠組みの枠組み、だろう。枠組みを自在に設定できるようになるには、枠組み自体を眺める視点での枠組みの設定を豊富に経験すればいいだろう。コップ半分の水を持ち出したのは、とかく多いか少ないかを決めたがる習慣に対して、決める枠組みを提示して、さらにその枠組みの想起で、枠組みへの喚起とした。例えば、他人が理解していることをどのように判断すればできるだろうか。理解の検証とか再現性とか工夫の余地に思い至るなら、その一般化としての枠組みの価値も理解するだろう。