昔の不思議を想像する

原始時代とかわからないけど、人類が言語を獲得した頃を想像してみる。何も根拠はない。色々と不思議に思ったことは沢山あるだろう。身近な天候や動物とかもあるだろうが、この世の始まりとか生命についてとか、今でも探求が続く不思議もある。人間は、不思議のまま放置するより、得心のいく理由を見つけたと想像する。その得心のいく理由が、あちこちに別々の理由として誕生したとも想像する。そして、理由と理由の違いに気づき、どちらかが残って理由に得心する範囲が広がったと考えたら、先の競合の話に似ている。それはそれとして、この先は勝手な想像だが、理由に得心のいく為には、信用できる確からしさが必要で、或いは、確からしいから得心のいくことになるので、確からしい予想は得心の拡大につながったと勝手に想像する。天候とかは、外れることが多いけど、太陽や月など天体の動きはほぼ確実に予想できるし、得心の範囲拡大の目的で天体の動きの探求が多いに進んだと、さらに想像する。天体でなくてもいいが、多くの人間にとって容易には理解できず不思議と感じ、かつ、ほぼ確実で覆ることがまずないことが必要である。天体以外には、この世の始まりなどが思い浮かぶ。勝手な想像は、さらに続く。神話とか、宗教とか、なんとなく似ている。天体について、確かな批判には容易には容認できなかったことに納得してしまう。まあ、今でも容易には覆せない勝手な想像を主張することはよくある。この書き込みがまさしく、その例だ。恐縮する。しかし、不思議に思うことは比較的容易に思い浮かぶが、不思議に思わないけど、説明に窮する事柄こそ不思議に思う方が感性として好みだ。それにしても、宇宙の始まりって実感しないし、その前も不思議だ。人類は、高分子の制御の進展で、生命を作れる、いや、創れるのだろうか?創っていいのだろうか?